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2015年06月29日14:23

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ウランとプルトニウムはねえ・・・日本人の手にはおえないモンスター元素

だから、ウラン原発と、プルトニウム原発と燃料工場は、停止、除去、廃却でいいと思う。


■【原発消えてよいのか】地獄を見た長崎原爆 それでも「原子力をうまく利用するのが文化人だ」 永井博士の「転禍為福」
(産経新聞 - 06月29日 08:03)
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【原発消えてよいのか】地獄を見た長崎原爆 それでも「原子力をうまく利用するのが文化人だ」 永井博士の「転禍為福」 27
2015年06月29日 08:03 産経新聞
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産経新聞
写真病床で子供らと話す永井隆氏(長崎市永井隆記念館提供)
病床で子供らと話す永井隆氏(長崎市永井隆記念館提供)
 「原子爆弾の原理を利用し、動力源として文化に貢献できるごとく一層の研究を進めたい。転禍為福(禍転じて福と為す)。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい世界が作られるならば、多数犠牲者の霊もまた、慰められるであろう」

 昭和20年8月9日、長崎市は一発の原子爆弾で壊滅した。焦土と化した市内で、自らを顧みず、懸命の救護活動に当たり、放射線障害で6年後に亡くなった医師、永井隆は『原子爆弾救護報告書』でこう書き残した。

 原爆被害のすさまじさを自ら体験しながらも、原子力がもつ可能性を科学者として冷静に把握し、技術発展の必要性を訴えた。

原爆投下「地球は裸になってしまった」

 永井は放射線医学の専門家で、長崎医科大(現長崎大医学部)の助教授だった。

 20年8月9日午前11時2分。米軍のB29爆撃機ボックス・カーが、プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を市内に投下した。

 その時、永井は大学でレントゲン写真を整理していた。爆風で窓ガラスが割れ、破片が永井に飛んできた。右目の上と右耳の辺りを切り、血が噴き出した。

 永井は『長崎の鐘』でこう記す。

 「あの沸き上がる青葉に埋まっていた稲佐山は赤ちゃけた岩山と変わっているではないか?夏の緑という緑は木の葉、草の葉一枚残らず姿を消しているではないか?ああ地球は裸になってしまった!」「大小の植木がなぎ倒され、それにまざって幾人とも数えきれぬ裸形の死人。橋本君は思わず目を両手でおおった。地獄だ、地獄だ。呻き声ひとつたてるものもなく、全然死後の世界である」

 長崎医科大は爆心地からわずか600メートルの距離だった。学生だけで約580人のうち414人が亡くなった。建物も灰燼に帰した。市内のあちこちで火災が発生し、放射性物質を含んだ雨が降り始めた。

 それでも永井ら何とか生き残った医師、看護師は、即座に負傷者の救護活動を始めた。人員だけでなく、医療機器も薬も、すべてが不足する中での、文字通り命がけの行動だった。

 「三角巾も繃帯も間もなく使い果たし、こんどはシャツを切り裂いては創を巻いていった。十人、二十人、処置を終われば、後から後からと『助けて下さい』と叫んであたらしい傷者があらわれ、いつまでもきりがつかない」(『長崎の鐘』)

 永井の傷も重く、治療に当たりながら、傷口からは水鉄砲で赤インクを飛ばすように血が噴き出した。数時間後、永井は卒倒し、一時は治療を受ける側に回った。

 もともと放射線医学の研究の中で、ラジウムを浴び続けたことで白血病となり、20年6月に「余命3年」との診断を受けていた。そこに、原爆が加わったのだ。

 永井の妻も原爆で亡くなった。

 そんな絶望的な状況で、永井らは救護活動に尽力しながら、今回の被害を分析した。米軍機がまいたビラで、原爆であることは分かっていた。

 爆心地から風下には放射線を発する塵が地面に降り注いで残留放射能の源となること、直接の被害と体内被曝の問題などを、一人で黙考したり、意見をぶつけ合ったりした。

 「絶望は半日も続かなかった。それはまったく新しい希望をたちまち抱くことができた。(中略)目の前に現れた全く新しい病気、(中略)原子爆弾症!この新しい病気を研究しよう。そう心に決めたとき、それまで暗く圧しつぶされていた心は明るい希望と勇気にみちみちた」(『この子を残して』)

 あまりの被害に、被爆地では「今後、75年間生き物は暮らせない」というデマも広がった。だが永井らは、植物や小動物が生きている様子から、このデマを否定した。

 学究の徒にふさわしい、冷静沈着な姿だった。

天皇陛下もヘレン・ケラーも

 原爆投下から1カ月。永井は9月10日頃、昏睡状態に陥った。

 「慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった」(『この子を残して』)。永井の体調は急激に悪化した。

 永井を慕う人々が、病室兼書斎を建てた。昭和9年に洗礼を受けていた永井は「己の如く隣人を愛せよ」との聖書の一節から「如己堂」と名付け、2人の子供と暮らした。

 わずか2畳の如己堂で、永井は原爆病の研究と執筆活動に没頭する。

 如己堂から発せられる作品や言葉は、世界中の人々の胸を打った。天皇陛下がお見舞いに来られ、ヘレン・ケラーやローマ法王の特使も訪れた。

 永井は恒久平和とともに、原子力の平和利用を訴えた。

 「爆弾の他に使いみちはないの?」と尋ねる長男・誠一に対しては、「こんなに一度に爆発させないで、少しずつ連続的に調節しながら破裂させたら、原子力が汽船も汽車も飛行機も走らすことができる。石炭も石油も電気もいらなくなるし、大きな機械もいらなくなり、人間はどれほど幸福になれるかしれないね」と答えた。

 「人類は原子時代に入って幸福になるであろうか? それとも悲惨になるであろうか? (中略)善用すれば人類文明の飛躍的進歩となり、悪用すれば地球を破滅せしめる。いずれも極めて容易簡単な仕事である。そして右にするか左をとるか、これまた簡単に人類の自由意思にまかせられてある」(『長崎の鐘』)

 「原子力だって火と似たものだ。恐ろしいけれど、うまく使えば恐ろしくはない。(中略)原子病を防ぐ手段をしておいて、原子力をうまく利用するのが文化人だ」(『生命の河』)。こう呼び掛け続けた永井は、昭和26年5月1日、息を引き取った。

原子力の平和利用こそ 

 平成23年3月、東京電力福島第1原発が大事故を起こした。原発を忌避する空気が日本中に蔓延する。「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」と原爆と原発を同列に論じる反原発派もいる。

 永井が生きていれば何と言ったであろうか。

 博士の孫で、長崎市永井隆記念館館長の永井徳三郎(47)は「祖父は原爆には反対だったが、原子力については毎日、研究するほど身近で、危険性を理解していた。それだけに原発について、単純にダメだということはないでしょう」と語った。

 内閣府所管の原子力委員会の委員長を平成13年から3年間務めた藤家洋一(79)も「永井博士は原子力と原爆とを明確に分離して考えていた。『禍転じて福と為す』という言葉には『悲しさ』はある。それでも、原子力の存在を人類が知ってしまった以上、平和利用するしかないと、大きな視点でモノを考えていたと思います」と語る。

 大分県国東市の市立富久小学校は、毎年修学旅行で長崎を訪れる。同校の教員が昭和25年、生前の永井を見舞った縁からだ。

 「永井先生は放射線を医療に使えないかを研究したお医者さんです。放射線はがん細胞をやっつけたりいろんな分野で活躍する。決して悪ではありません」

 校長の岩光一郎(56)は、修学旅行を前にした児童に、こう語りかけている。

 「原子力にはマイナスもあればプラスもある。子供たちには、博士の願った原子力の平和利用について、また、原子力のたどった歴史をしっかり学んでもらえたらと思います」

 永井の思想は、教育現場に根付いている。(敬称略)

     ◇

 九州電力川内原発(鹿児島県薩摩川内市)が、再稼働へ最後の手続きに入った。再び原発が日本の電力供給の一部を支える。その時に、根強い情緒的な「脱原発」の空気を振り払うことができるだろうか。
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