下記は、2015.6.26付の産経ニュース【戦後70年〜沖縄(3)】です。
記
日本の復興を世界に示した昭和39年の東京五輪。ギリシャ・アテネを出発した聖火は開幕1カ月前の9月7日正午、日本航空の特別機で米国統治下の沖縄・那覇飛行場に到着した。
雲一つない青空の下、島民2万人が詰めかけ、日の丸の小旗を振った。祝日以外は公の場での日の丸掲揚は禁止されていたが、この日ばかりは黙認された。
米空軍軍楽隊がファンファーレを奏でる中、第1走者の琉球大4年、宮城勇(73)=沖縄県浦添市=は壇上で聖火のともったトーチを高らかに掲げた。純白のユニホームには日の丸と五輪。拍手が続いた後、予期せぬことが起きた。
「万歳!万歳!万歳!」
万歳の大合唱は地鳴りのように響いた。群衆と報道陣をかき分けるように飛行場を飛び出すと、沿道にも延々と日の丸の人垣が続いていた。宮城の胸に熱いものがこみ上げた。
「僕は日本人なんだ…」
聖火は5日間かけて沖縄本島1周(247キロ)を駆け抜けた。行く先々で日の丸が振られた。宮城は当時をこう振り返る。
「後にも先にも、あれだけの熱気、あれだけの日の丸を目にしたことはありません。飛行場や沿道の人々は『日本』を強く意識し、本土への思いをますます募らせたのでしょう。もちろん私も同じ思いでした。終戦から19年を経た沖縄の人にとって、聖火は将来を照らす道標だったのです」
27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復したが、沖縄は米国統治下に置かれたままだった。「アメリカ世(ゆー)」と呼ばれる時代。船で鹿児島県に渡るにもパスポートと検疫が必要だった。
33年夏、首里高校が戦後初の沖縄代表として甲子園に出場した。初戦で敗退した球児たちは甲子園球場の土を持ち帰ったが、検疫により那覇港ですべて海に捨てられた。
米兵による凶悪事件・事故も相次いだ。
30年9月、沖縄本島の石川市(現うるま市)で6歳の女児が米兵に乱暴された上、殺害される事件が起きた。米兵は軍事法廷で死刑判決を受けたが、米国へ身柄を送致後、懲役45年に減刑された。
34年6月には、米空軍の戦闘機が操縦不能となり、小学校の校舎に激突、炎上した。パイロットは先に脱出して無事だったが、小学生11人を含む17人が死亡した。
反米感情の高まりは人々を祖国復帰に駆り立てた。沖縄教職員会や革新系政党は35年に「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)を結成した。ここがその後の祖国復帰で中心的な役割を果たしていく。
新米の英語・音楽教諭だった崎山用豊(78)も「今の沖縄はあまりに理不尽でみじめだ。奄美のように祖国に復帰したい」と運動に参加した。
ブラスバンド隊としてトラックで集落を回り、音楽で祖国復帰を呼びかけた。指揮者の男性教師は日の丸の小旗2本を指揮棒代わりに振り、教職員会の愛唱歌「前進歌」を歌った。
結局、第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワーは安保条約改定には応じたが、沖縄返還は先送りした。在沖縄米軍基地の整理・統合には時間を要すると判断したからだった。
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岸に代わって第58〜60代首相となった池田勇人は所得倍増計画を推し進めたが、安全保障への関心は薄く、沖縄返還で動くこともなかった。政府が返還に再び動き出すのは39年11月9日、岸の実弟である佐藤栄作が首相(第61〜63代)に就任してからだった。
佐藤の行動は素早かった。40年1月の初訪米で第36代大統領のリンドン・ジョンソンと会談した際、「沖縄返還は国民の願望である」と早期返還を求めた。8月には戦後の首相として初めて沖縄を訪れ、那覇空港でこう語った。
「私たち国民は沖縄90万の皆さんを片時たりとも忘れたことはありません。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後が終わっていないことをよく承知しております」
42年8月には首相の諮問機関「沖縄問題等懇談会」が「両3年(2〜3年)内に施政権の返還時期を決定することで合意を得る」とする中間報告をまとめた。これを受け、佐藤は11月にジョンソンと再び会談。共同声明に「両国政府の両3年内の返還時期についての合意」が盛り込まれた。
佐藤は、外務省を通じた正規ルートではなく独自に裏交渉を進めた。大統領特別補佐官のウォルト・ロストウと親交のある国際政治学者、若泉敬を密使として米国に送り込み、ホワイトハウスと直接交渉したのだ。このような秘密主義は実兄の岸とよく似ている。
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1969(昭和44)年1月、米大統領は民主党のジョンソンから共和党のリチャード・ニクソン(第37代)に代わった。政権交代により返還交渉が頓挫する危険性もあったが、ここで岸が再び登場した。
アイゼンハワーをはじめ共和党に太いパイプを持つ岸は米国に飛び、4月1日にニクソンと会談した。ここで岸は安保改定での苦い経験を交えながら「沖縄返還が長引けば、日米同盟の離反を狙う共産主義国による工作が活発化する」と返還交渉の継続を迫った。
これが奏功し、44年11月21日、佐藤はニクソンとの会談で「核抜き・本土並み」の沖縄返還を正式合意した。11月26日、自民党幹事長の田中角栄(第64、65代首相)らが佐藤を羽田空港で出迎えた。
「沖縄の祖国復帰が47年中に核抜き・本土並みという国民の総意に沿った形で実現することになったことをご報告申し上げます」
佐藤がこう語ると一同は万歳した。
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帰国直後、佐藤はひそかに若泉と面会した。
「小部屋の紙の扱いだけは注意してください」
若泉がこう切り出すと、佐藤は「ちゃんと処理したよ」と答えた。
佐藤に先立つ11月6日に訪米した若泉は、大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーと接触しながら、ある草案を書き上げた。
「緊急時の核再持ち込みについての合意議事録」
沖縄の施政権を返還後も極東有事に際しては米の核再持ち込みを可能とする密約だった。この議事録は日米共同声明とは別に、両首脳だけで小部屋に入り、署名した。
「議事録=小部屋の紙」の存在を知っているのは佐藤、若泉、ニクソン、キッシンジャーの4人だけ。2通作成され、ホワイトハウスと首相官邸にそれぞれ保管、首脳間でのみ極秘裏に取り扱うこととなった。
若泉は著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」に議事録についてこう記した。
「核時代における自国の生き残りをアメリカの核の傘の保護に求めている敗戦国日本としては、万が一にも緊急不可避の非常事態が生起した場合、自国の生存と安全のためにもこの文章が必要になるかもしれない。それがそもそも日米安保条約の存在理由ではないか。(略)これなくしては日本の固有の領土・沖縄とそこに住む百万同胞は返ってくることはない」
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47年1月、佐藤は再び訪米し、ニクソンと日米首脳会談を行い、5月15日の沖縄返還を合意した。
正式返還は5月15日午前0時。那覇市はあいにくの雨だったが、車のクラクションが一斉に鳴り響き、歓喜の声が上がった。船舶の汽笛や寺院の鐘も鳴った。
だが、沖縄で祖国復帰運動を主導してきた復帰協はすでに左傾化していた。米軍基地が残り、自衛隊が新たに配備されることに猛反発、この日を「新たな屈辱の日」とした。沖縄復帰は革新勢力による反米闘争の新たな出発点でもあった。
(敬称略)
http://www.sankei.com/premium/news/150626/prm1506260009-n1.html
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