mixiユーザー(id:6242362)

2015年06月02日09:02

64 view

『寂れた旅館で』


「まあいいから離婚するって決まったんなら、婚前旅行ならぬ離婚旅行だよ」
 俺たちの仲人さんの台詞は無責任にしか聞こえない。
「でも、今更」
「もう予約しちゃったもの、裕美さんといってらっしゃい。最後でしょ」
「本当に最後の最後ですよ」
「はいはい」
「本当ですよ」
 妻と旅行なんて新婚旅行以来だ。仕事が忙しくて妻に構っていられない。俺たちに子供はいない。とうとう授からなかった。

 旅館に着いた。
「汚い旅館ねー」
「せめて寂れたって言えよ」
 妻は冷め切って容赦ない。悪びれた様子もない。
 別々に離れて旅館の夕食を摂って、風呂も入らず布団を2つ、部屋の端同士離して、俺はふて寝した。なんで離婚する妻と同じ旅館の同じ部屋に泊まらなきゃならないんだ。
妻は露天風呂に入ってから、寝たんだと思う。黙って着替えを持って部屋を出て行ったのは覚えてる。
 
すると夢を見た。
 時は江戸時代らしかった。ちょんまげ姿の刀を持った男たち2人が俺たちの部屋に押し入ってきた。
「あなた」
「裕美」
 いきなり問答無用に1人の男が妻の首を刺して抜いた。みるみる妻の首から血が噴き出してくる。それを手で押さえている。
「ああ、血が…。血が…」
「裕美!」
 大出血だ。
「ああ、あなた、私、死ぬのね」
「裕美!」
 妻をかばって俺も背中から刺された。女をかばって後ろを向いているところを刺すなんて下衆(げす)のやることだ。
「うう」
 痛みが痛いとかの次元じゃなかった。これが死ぬとはこういうことか?
「私たち生まれ変わってもまた夫婦(めおと)になろう?」妻は薄れていく意識の中で涙を流した。「私、死ぬのね。あなたに出会えてよかったわ。ありがとう」
「裕美!」
 首からの出血がひどい。もう持たない。もう持たない。妻が死んでしまう。
「ああ、俺も生まれ変わってもお前しかいない。また夫婦になろう」
「さよなら…」
 首を押さえてた血だらけの手がだらんと垂れて、妻は絶命した。
「裕美!」
 妻が死んでから俺は今度は後ろから心臓めがけて刺された。
 またしても後ろからだ。こんな下衆に妻と俺が殺されるなんて。
 俺も死んだ。悔しい。悔しい。悔しい…。

 旅館で目が覚めると離れていたはずの布団は部屋の真ん中でくっついていた。
 妻も同時に起きた。
 妻は俺の両手を握りしめた。「あなた。あなた。あなた」妻は涙を流していた。
「裕美」
「また会えたのね、わたしたち」
「うん」
 二人の台詞が重なる。
「どうか離婚しないで…」
「どうか離婚しないで。あなたの妻でいさせて」
 俺は照れながら…。
「ああ、俺も同じ気持ちだ。これからもずっと一緒だ」
 妻と俺は抱き合ってお互いの存在を喜んだ。そして朝食は2人仲良く向かい合って食べた。出会った頃の想い出話や近所のおばさんの悪口などで会話が弾んだ。
 そうして妻と俺は旅館を後にした。
 この不思議な旅館は仲人さんに無理やり泊まらせられたが、仲人さんには夢のことは話さなかった。

 妻と俺の仲人さんに、あの旅館のあの部屋で昔、駆け落ちした男女が2人の武士に殺されたという話を聞いたのは、妻が妊娠7カ月の今、あれから2年後のことだ。

6 8

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する