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2015年05月24日13:44

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018 憑依文字 1/

憑依文字

一名、朝鮮黄海口伝(ふぁんへくじょん)伝





時 西暦二〇〇二年六月五日(すなわち改正麻薬及び向精神薬取締法施行前日)

場 北緯三五度五五分四〇秒東経一三九度五九分三〇秒(すなわち茨城県北相馬郡守谷町大字根切在)

人 崔寅愛(ちぇ・いね)(18歳、朝鮮族、巫堂(むーだん))
  柳正浩(ゆ・じょんほ)(亡霊、朝鮮族、民画絵師)
  海花(ハイホア)(亡霊、満州族、革命家)
  ヴァネッサ(亡霊、ゲール族、正浩の愛人)
  ルールー(守護霊、前歴不明、少女)
  文字
  声





第一場 声はどこから聞こえてくるか

攻撃的なまでに明るい障子が背後に並ぶ、日本家屋の離れ座敷。文机に水差しと何かの粉薬がある。チマチョゴリ姿の等身大のロウ人形が一体、立っている。どこかで怪しく、風鈴が鳴る…。と、どういう仕組みか、人形、キリキリ動き語りだす。

 三十年の人生が見いだしたのは
 見捨てられ厭われたひとりの妻

 若さの秘訣をあなたは語った
 正しい道はいかにして見つけうるか
 失われた目の輝きを
 いま一度取りもどすには
 いかなる心持ちで暮らせばよいのか

 髪を整える暇すらないほど
 私の心はひた走る
 わが肌えにみるみる広がる
 あの知と善の心持ち

 私が死んだらあなたは
 亡骸に立派なマントを被せこういう
 君の尊い悲しみはわが糧となった
 いま俺はひとり遺され
 やがて君を追うだろう

語り終えるとふたたび風鈴鳴り、人形、また静止。セミの声、しげく――。やがて、銅鑼の音…。ふいに人形、人になる。

寅愛(いね) 私の名は崔寅愛(ちぇ・いね)――。この下総(しもふさ)の離れ部落で、ただ無為に待っている…。何を待っている…? 時が過ぎゆき、御魂(みたま)たちが景色に溶けゆき、景色と時とが溶けあわさって、この星の緩やかな老いが進んでゆくのを…。でも、なかなか現世じゃ難しいね。無為に暮らすにもお金はいるし、ひと様の目もある。ましてこんな外れの部落に余所者が来て、どうやって目立たずにいられようか。でもまあ、ともかくマスコミからは逃れられたか。いちおう感謝しときますよ、柳(ゆー)先生。――先生? お出かけですか。
声 出かけるところなぞないさ。今日は一日、つきあうつもりだ。
寅愛 もの好きなことで。まあ、あたしゃどっちでもいいけど。
声 よくはない。早速、始めようか。まずは手紙を読んでくれ。
寅愛 (不安に)手紙?
声 とぼけなくていい。来たんだろう、竹一から。
寅愛 (やや厳しく)なぜ知ってるんだい。
声 君の夢のことならよく知ってるさ。寝言でさえいっていたよ。
寅愛 聞いたの、いやだねえ。でも、あの人は夢じゃないよ。(抽斗から巻紙を出す。が、それは寅愛にしか見えはしない手紙だ)そら、ここに、現に手紙が届くじゃないか。
声 現に届いた? ふむ、ありもせぬ戦地からの通信か、奇跡だな。降(くだ)ったとでもいいたくなる。さあ、早く。
寅愛 私信だよ。いい趣味じゃないね。
声 極私的な便りはその酔いのためにむしろ公の性質を帯びるものだ。ともかく読まねば始まるまい?
寅愛 はいはい…。『――私は今、アクサイチンに向かっております。ゴルムドから西に二百キロ余り、青海(チンハイ)省の名もない山かげの一件宿に、幾日ぶりかで露営をまぬかれています。ここはもう中共勢力の届かぬところ、国軍第四連隊と甘粛(カンスー)軍閥馬倒懸のお膝元に当たります。今世紀に入っても一向に改善されなかったただならぬ悪路すら避けざるを得ず、無数の臨検をかわしつつ、この茫々たる高原までやってきました。外は吹雪です。寅愛(いね)さん、お変わりありませんか? 実に浦賀以来の便りをしたためております。もう二十日も歩けば前線も間近になりましょうし、いつ何時不慮の事態の起きぬとも限りません、戦地の今日はいつも最後の今日なのですなどと強がりつつ、この手紙を書き始めましょう。アクサイチン。美しい響きの土地です。しかしあそこでの出来事には首をひねることばかりです。一体、中印双方の軍部がいうようなウラン鉱をめぐる戦闘の意味など、本当にあるのか? たんに五千メートルの高地にレミングのように、憑かれた若者が集まっていっているだけのようにも思えてきます。ああ、寅愛さん、ここはひどく異常です! 志願してそこに向かっている私も、全く滑稽です。おそらく戦闘そのものは滑稽ではないでしょう、しかしもしや来る私の死は…? いや失敬、いきなり困らせるような話題でした。しかしまあ、いっとき韜晦するためにすら、話の枕に戦闘シーンを置かずには何も始まらぬ、ことほどさように戦地というのは酷いところなのでした。しかしもうやめましょう。ところで、いつぞやの葉書では少々(いささか)失礼をいたしました。あの時の話題は一種の謎かけであったのです。横浜沖、第四海堡の亡霊の話でした。霧雨にけぶる退屈な待機シフトの暗い昼、本牧軍舎三階の窓から見はるかす沖合の第四海堡に、人影が見えると。チヌの釣人と考えるのが普通でしょう、しかし雨です。時化をおして岩礁にこだわる釣人がいても不思議はありませんが、毎日ということになれば、それだけでかの人の存在も亡霊じみてくるというものです。あの葉書で私は、もしかすれば本当にあそこにはいま人などおらず、波が砕けているだけかも知れぬ、ただ関東の大地震で瓦解の折にこびりついた若い砲手の染色体の一片くらい、まだあのガレキに残存するがゆえに、これから戦地へ向かう私の目にまでその念が届いたのやもしれぬ、などと、ややぼかしながら気分を述べました。何の戯れごとよと一笑されておりましょうか、悪趣味をたしなめられるのを承知で今度の手紙もふたたび、あの海堡についてです。というのも、たった今、夢を見たのです。五、六歳にもなる少女でしょうか、堅い表情に目だけがぎらりと光った子でした。そこは私の生まれ育った逗子の、池子(いけこ)の森の周辺のどこか、おそらくは、景色が暗くてはっきりしなかったのですが、小学生の頃バラ線を潜(くぐ)った基地の内側で出会った気さくな黒人兵に突然M16ライフルで照準され銃撃されそうになった、あの谷地(ヤチ)ではなかったかと思います。麻のシャツを着て、少女が歌います。
 沖の小島で見張りの神よ
 カモメが騒ぐ
 静かな内海(うつみ)をたゆとう木の葉
 嗤(わら)いもしない
 咽喉(のど)に鉛をぶち込まれて
 歌えない巫女は
 もぐりの小舟に身を横たえて
 冷たく廻る
何の比喩でありましょう、沖の小島とは…? 小島で見張る神とは…? 思えば夢とはまこと不思議です。知らないことは夢に現れないとの原則はもっともとしても、されど我ら、いかに自分の認識について無知であることか。そんな少女を知りはしません。しかし夢にものがたりとして現われる以上、いつか何らかの刷り込みがあった筈だ――。大脳新皮質46野は前頭葉集合野にあり言語野と運動野の間に挟まって判断力をつかさどる部位、アーネスト・ヒルガード教授によればたとえばα波音楽などにより脳活性化伝達物質ノルアドレナリンの分泌が抑えられると、過剰放出されたセロトニンは脳幹の松果体において睡眠誘発物質メラトニンに変化、結果として、自分自身で論理的に判断する事ができなくなる、暗示に従いやすくなる、一つの事に注意が極度に向けられる、過去の記憶が鮮明に浮かぶ、などの身体的変化が発現される。治療で行われる心理誘導は大概この方法をとるが、ゲリラやカルト教団の多くはむしろ暴力的な方法を使う。すなわち判断力のリミッターである新皮質46野に過剰な情報を詰め込み正常な判断力を麻痺させるのだ。判断力のブレーカーが落ちた状態だ。これは仮説だが、二百年前と較べれば現代に生きる都市人では危機判断の能力は格段に上がっているに違いない。勢い洗脳主義者たちの手管は物量過多となる、情報の津波が直接に脳を襲う。この三〇年に頻発した心理犯罪から受ける無惨な印象は、何より情報過多、物量過多に現代の善が対抗できないというやり切れなさによるのではないか。手狭な土間の浅い眠りはそんな思案によって途切れました。――途切れる刹那に、思い出したのです。いつか聞いた、朝鮮の巫覡(ふげき)の話を。こっちの方は那山が専門ですので詳しく訊ねてやってください、きっと喜んで語ってくれましょう。かいつまんで話せば、柳家荘(りゅうかそう)、半島から黄海へ龍の口吻(くちばし)のように突き出た岬、長山鼻(ちゃんさんこ)のつけ根に当たる辺鄙な海辺にかつてあった祭司の村、柳家荘のことです。そこでは子供らは二次性徴の現れとともに男子は絵師、女子は踊り巫女としての研鑽に入ります。それぞれのトーテムとそれぞれの先達とに教えられて、長大な神譚を語るための気の遠くなるような修行の日々。長じては、普段は雑貨や乾物の行商で糊口をしのぎ、折々の祭儀や人々のなりわいの節目に思わぬ路地からふらりと現われ、系図の裏に秘められた書かれぬものがたりを口伝えで語っては消える放浪の芸伎集団。その組織力は、最盛期の李朝前期には朝鮮八道はもとより遠く沿海州まで及んだといいます。黄海口伝(ふぁんへくじょん)、こうかいくでんと呼ばれるこのものがたりは二十世紀百年間の破壊によって大打撃を加えられましたが、今なお、細々と命脈を保っているとも伝えられます。そのなかで、柳正浩(ゆ・じょんほ)というひとりの絵師の存在を、那山が話してくれたことがありました。長山鼻出身者には先端信仰があって、岬の沖合にもし小島があれば、神々はまずそこに現れてからのち、陸地に渡ってくると信じられているそうです。柳正浩は前世紀の中葉から後半に掛けて生きた人らしいのですが、知名度に較べて不思議とほとんど記録に残っておらない謎の人物です。ただ、最後には高知で獄死しています。糸満のギャング団と組み華南密航者の手引きをしたかどで拘留された時には肺をやられて弱りきっておりあっけのない死だったと申します。しかし問題は生前彼が一種のマニアのように、日本全土の岬という岬を歩き回って、そのそれぞれの沖ノ島に小さな護符を彫り歩いた、という事実です。実際初めはこのおかしな行動に目をつけて、官憲も彼を追ったのでしょう。いったい何を彫ったのか、と私は那山に訊きましたが、漢字と仏教とに深く影響されてはいるもののおそらくは長山固有の信仰符だったろうさ、正直なところ拓本を見ても少しも分からんがねと、カッカ笑っておりました。もっとも、そんな性格の呪文ならば読み解く必要もないのでしょう、厖大な労力を費やし危険を侵しまでして小さな碑文を刻むという、このこと自体がある磁場をうむのでしょうから。もうお分かりでしょうか? そう、おそらくはその碑文が、第四海堡にもあるのです。柳正浩は激動のいくつもの時代を跨いで長く生きた人ですから、いつあそこにおもむき、たがねを振るったかは調べるすべもありません。いずれにせよあの恐るべき震災でわたつみの眷属と成り果ててのち現在まで風化の一途をたどっている島にあってはとうに失われているでしょうし、よし残っていたとしても、別段そこまで出かけて行って確認しようという程の酔狂さも私にはありません。私の酔狂ならば、むしろ、この水さえ乏しい高原で、自らのナショナリズムとは何の関係もない他人の土地の戦闘に、加わろうとしているところにあります。標高が上がって、空が澄んで参りました。これは、常に白茶けた湿気に充ちた横浜の空とは違います。私の内なるナショナリズムは、たしかにここではなく、第四海堡に亡霊を見てしまうような湿ったメンタリスムと共にあるのです、柳正浩の不確かな業績をも頭から信じてしまうような感覚と共に。それなのにいまは何ゆえティベットに向かうのか、その事情を詳しく述べるゆとりはありません。述べずとも、それは目前に迫った未来によってまもなく検証され、もし間違った選択であるなら身にも心にも相応の報いを受けることでしょう。そんなことはどうでもいいのです。そんなことよりも、我が二十一年の人生において、先刻の夢でふいにたどり着いた私の底の風景を、誰かに伝えておきたかった。ここでは情報はいつ途絶するかわかりません。この手紙は明朝町に向かうという土地の青年に託しますが、あなたに届く可能性は、正直、少ないと思います。それでも今はこれを書かざるを得ない。生還したらまたあなたたちと愉しく語りあいたいと思っています。では、お元気で。崔寅愛様 曽根竹一』

間。――

声 なるほど。で、その曽根君は今、どうしているんだね。
寅愛 さあ。新聞によれば、ひどい戦闘があったとか。
声 心配か。
寅愛 そりゃそうだよ。でも、忘れるようにしてるんです。何の力にもなれないから。それに――
声 …。
寅愛 ルールーが守ってくれる…。
声 (驚いて)そうかね?
寅愛 出てきたでしょう、夢の娘。
声 沖の小島の…あれもルールーか…。
寅愛 でなけりゃ説明がつかないよ。守ってくれるんだ、きっと。
声 チベットまで行けるものかね。
寅愛 あの世の仕組みはよく分からない。でも、いいましたかね、あたしの前の前にあの子が憑いてたのは、ずうっと遠く、メキシコの女だった。
声 ふん、マリア・サビーナ。有名な降霊術師だ。
寅愛 いいましたっけ。
声 テレビでね。
寅愛 ああ…。
声 君がキノコを使うのはマリアのアイディアか。
寅愛 (曖昧に)…ええ。
声 それともルールーの発案なのか。
寅愛 さあ、どっちでしょう。
声 それで、だいぶ変わったのかな。
寅愛 何が。
声 君の瞑想のありようがだよ。
寅愛 さあ、そんなことは考えてない。あたしって何も考えてないんです。とにかくルールーがコントロール・コーラスで、こっちはただの容れものだから。
声 ふうん…。実際、瞑想ってものがどういう構造になってるのかどうも私には分からないんだが…。訊いてもいいかね。君は全羅道の世襲巫の慣習からあまり外れるというので降神巫の土地ソウルへ逃れた。が、そこでもあまり過激なものでいられなくなり、それならとむしろショービジネスとして、この日本に渡ってきたわけだ。客観的な世襲巫と鮮やかに対置される君の憑依は、まあキワモノとして売れたは売れた。しかしそこへ薬物による強制的な幻覚作用を持ちこんだら、芸の独自性が薄れやしないかね? 現にもっと華のある追随者が現れて、もっか君はホサれてるような状態じゃないか。それでいいのかね。
寅愛 いいんだ。
声 マスコミの目をむしろ避けてるようじゃないか。いいのかね。
寅愛 いいの。
声 希望に副うよう手助けは惜しまないが…。もう、売りこむことは諦めたのかな?
寅愛 今のあたしは――曽根を助けられれば。
声 (やや驚き)ああ、そうなのか…。それが夢の住人でも。
寅愛 夢じゃありません。
声 そんな戦闘が起きていないとしても?
寅愛 起きてます。新聞に書いてあったよ。
声 いいや、書いてないな。
寅愛 え?
声 どこにそんな新聞がある。この部落に配達は来ないんだぜ。…再三いってきたろう。その記事からしてが寅愛、君の幻だったのさ。
寅愛 (執拗に)いいんだ…。われらはくぐつ/うつつよにあり。所詮、あたしゃ幻の世に糸を引かれて歩く人形なのさ。どの世界が本当でどの世界が幻かなんて、みんなが分かってるほど分かってないし、いいや、むしろ分からないことをそのまま引きうけて生きていくのがあたしなんだ。先生、いくつもの世界があるんだよ。
声 不思議な宇宙観だ。そのいくつもの世界に、つまり惚れこんでるってわけか。
寅愛 惚れこんで? 違う。何もね、好んでなった憑依体質じゃないんですよ? できりゃ普通に暮らしたいんだ。竹一さえ帰ってきたら、あたしは、もうこんな仕事…。
声 そうか…。だが、こんな資料もある。
寅愛 ?
声 茨城県厚生局麻薬取締部発表 近年わが国において幻覚性キノコが脱法ドラッグとしてインターネット等を通じて販売され、これらの濫用による健康被害事例が発生していることから、国民生活上及び保健衛生上の危害を防止するため、この度マジックマッシュルーム類を新たに麻薬原料植物として規制することとしました。サイロシビン又はサイロシンを含有するキノコ類が麻薬原料植物に指定されたことにより、これらのキノコを厚生労働大臣等の許可を受けないで輸出し、輸入し、栽培し、譲り渡し、譲り受け、所持等した者は、麻薬及び向精神薬取締法違反として処罰されることとなりますので注意してください。改正政令は、公布の日、平成十四年五月七日から起算して三〇日を経過した日から施行されます。
寅愛 (ぼんやり)平成十四年って…。
声 二〇〇二年かな。
寅愛 二〇〇二年ね…今年だよ。何日だって。
声 三〇日後といえば、六月六日か。
寅愛 ――明日じゃないか。じゃあ…。
声 (やや自嘲的に)短い間だったがご苦労さん、今日まで何の罪にも問われなかった行いが明日からは懲役七年、罰金三百万の重罪へと変わるんだ。君の芸は明日から犯罪ってわけだ。
寅愛 (呆れて)そりゃあ、ないや…。
声 大丈夫、今はまだ昼間だ、あらゆる科学的見地において幻覚キノコによるすべての薬効は六時間以内に完了する、すなわち明日には晴れて常人というわけさ。さあ、薬はそこに注文以上のものを用意した。パナエウラス・トロピカリスの粉末だ。使いたまえ。
寅愛 パナエ…何ですか、それ。いつものあれ、千本西行笠でいいんですよ。キノコにぁ慣れが必要なんだ、何でもいいってわけにゃいかないんでさ。
声 分かっている。だがそこにあるのはより安全かつ、より効果の強いキノコだ。密かにビルマから空輸した。
寅愛 余計なことを。
声 まぁいいから服(の)みたまえよ。
寅愛 (服む)…不味(まず)。
声 人体に危険はないし習慣性もない、さらには官権の目の届かぬよう、わざわざこの鄙びた部落を選んであるんだ。ここは下総の番外地、利根の流れからさえ見捨てられた、土手の外れの遊水池さ。それとも未知の種におびえているのかね? それなら要らん心配だ、ただ日本になかったから君が知らんだけのことさ。幻覚キノコに自己催眠、そうして多重人格か。君らのように隔離されがちな芸能者には、時にこうして外部の風を送ることも必要だろう。そうして隔離さえしておけば君の芸なぞまったく無害だ。たかがオカルトの皮をかぶった経験科学の寄せあつめだろう。
寅愛 随分だね。そう思うんならあんたがおやりよ。
声 それが、そうもいかない。素人にはやはり無理だ。
寅愛 できるんじゃない? 怖いんだ? う…。(気分悪そうにする…薬が効いてきている)
声 そうではない。それに君でなければやはり無理だ。なぜなら私が知りたいのは――私の祖霊を呼べというのじゃない――今の私にもそして無論君にもまるで関係ない歴史的人物、柳正浩(ゆ・じょんほ)のことなのだから。そんなものを呼びだすことは、日本のイタコでは無理な話だ、口寄せ婆なぞとはとんだガセで、あいつらはただ、知っているパターンをあれこれ並べてそれらしく死者を演じているにすぎん。つまり遺族が死者に聞きたいことなぞ、高の知れたパターンにすぎんということだ。だが君は…その…未知の淡々たる人物をも演じられるそうじゃないか。しかも朝鮮人だ。そこを買ったのだ。
寅愛 演じる…?
声 怒るかね。
寅愛 別に。演じるのかどうかなんて、考えたこともないや…。うう。(吐きそう)
声 なら頼む。故郷を遠く離れ、世間のいかがわしい評価さえ受けいれ、場末の大道芸さながら日本まで来た君、ほとんどすべてのプライドを棄ててもなお、自分にしかできない「演じ」があることを知っている君にだから頼むんだ。未知の祖先の学問的な細部にまで迫れる君だ、かほどに、君の神懸かりが本物だということなんだ。
寅愛 本物かどうかなんて、知らないよ…。うえ…なんだこの薬…。
声 そう――。やはりパターンの集積には変わりないのかもしれない。だがだとしたら、そのパターンの豊富さこそが大切なんだ。並の巫女と較べて桁外れに多いということだろう。むしろパターンの世界が先にあって、やがて君という形に像を結んだとさえ思えてくる。なぜこういうことが起きたのかは確率の問題としかいいようがない。が、とにかく、君の人格はもはや君ひとりのものではなく、むしろある民族、いやさ、ある風土自体の無意識の系だ。系の豊壌が君となり、君をして未知の人格をも演じさせるのではないか、そう私は考えているわけだ。
寅愛 はあ…そんな、大したもんじゃ…ないんですが…。
声 寅愛君。私は何としても、祖霊、柳正浩に会いたいんだ。この通りだ、期待してますよ。
寅愛 もうちょっと…来る、来る…。(苦しげに、うつ伏せる)

 われらはくぐつ うつつよにあり
 なげきのそらの そらごとまえり
 されどもそらの そこひのおもい
 もゆれどいずれ くぐつならずや







2/→ http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=63544184&id=1942429078
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