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2015年01月31日00:37

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1月31日の日記

今日の出来事:1569年−本圀寺の変、1863年−英国公使館焼き討ち事件、1879年−高橋お伝が斬首刑で処刑(日本最後の斬首刑)、1942年−第二次世界大戦:マレー作戦、ジョホール・バル陥落

今日は、本圀寺の変です。本圀寺の変は、1569年1月31日に「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」らが、京都本圀寺に仮御所を置いていた室町幕府15代将軍・足利義昭を襲撃した事で起こった戦闘です。「永禄の変」で13代将軍・足利義輝を討った「三好三人衆」でしたが、松永久秀との主導権争いで1568年に足利義輝の弟・義昭を奉じる織田信長の上洛軍を阻めず京都から退却し、信長と足利義昭の入京を許しました。そして、信長により「三好三人衆」が推戴した14代将軍・足利義栄(義昭の従弟)が廃され、将軍の座を足利義昭に奪われました。しかし、奉公衆と共に仮御所としていた足利義昭の本國寺の警護を、明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆に託すと、信長は本国・美濃へと帰国しました。手薄となった畿内の織田勢の隙をついて、足利義昭を討とうとする「三好三人衆」に、信長に敗れて流浪していた斎藤龍興が加勢して本國寺を襲撃した事から、戦闘が始まりました。1569年1月31日に、三好勢は本國寺へ攻めかかりました。明智光秀ら織田勢を中核とする足利義昭方は、本國寺に立て籠りました。本國寺の陥落は時間の問題と思われましたが、三好勢の先陣・薬師寺貞春の軍勢が若狭国衆の山県源内、宇野弥七らの奮戦により、幾度も寺域への進入を阻まれました。細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重ら、急報を聞きつけた畿内各地からの織田勢の後詰が駆けつけました。このため、不利を悟った三好勢は退却を試みましたが追いつかれ、足利・織田方の軍勢と桂川河畔で合戦となり、足利・織田方の勝利となりました。信長は岐阜で「本國寺が襲撃された」という報告を受けました。天気は大雪でしたが信長は直ちに出立し、本来3日かかる行程を2日で走破しました。本國寺に入った信長は、戦功のあった池田衆の池田正秀らを賞した後、本國寺防衛のために「二条城」の造営を開始しました。「二条城」の建設には本國寺の建築物が解体・再組み立てされて用いられました。

次に、英国公使館焼き討ち事件です。1863年1月31日、江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館が、焼打ちされた事件です。長州藩・高杉晋作は「薩摩藩はすでに生麦事件で夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。」と論じていました。外国公使が横浜の金澤八景で遊ぶから、そこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(後の井上馨)、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎)が相談しました。しかし、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話した事から、これが土佐前藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わりました。毛利定広に、無謀であると制止されて実行に到らず、桜田邸内に謹慎を命ぜられました。謹慎中の同志は「御楯組」結成の血盟書を作りました。「御楯組」の署名者は高杉晋作が提唱し、久坂玄瑞、大和弥八郎、渡辺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎でした。高杉晋作は「御楯組」を組織し、勅使らが江戸を離れた後に実行しました。1863年1月31日、高杉晋作ら「御楯組」の12名は品川御殿山で建設中の英国公使館の焼討ちを決行しました。隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:志道聞多、伊藤俊輔(後の伊藤博文)、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助、有吉熊次郎、福原乙之進、山尾庸三でした。この焼き討ちは成功し、英国公使館は炎上しました。幕府側には高杉晋作らの仕業とはわからず、犯人は発覚しませんでした。

その次に、高橋お伝が斬首刑で処刑(日本最後の斬首刑)です。高橋お伝は、強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性で、「明治の毒婦」と呼ばれました。お伝は、1850年8月に誕生後、すぐに養子に出されました。1867年1月、高橋浪之助と結婚しました。1872年9月17日、夫・浪之助が癩病を発病後に死去しました。その後、小川市太郎と恋仲になりました。1876年8月、ヤクザ者の小川市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、枕を交わすなら金を貸すと言われました。8月26日、後藤吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で一晩を過ごしました。翌8月27日、後藤吉蔵が態度を変え、金は貸せないと言い出したため、怒りに任せて剃刀で喉を掻き切って殺害し、財布の中の金を奪って逃走しました。9月9日、高橋お伝は強盗殺人容疑で逮捕されました。1879年1月31日、東京裁判所で死刑判決が下り、市ヶ谷監獄で死刑が執行されました。八代目・山田浅右衛門の弟・吉亮により、斬首刑に処されました。遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)が現在の東京大学法医学部の参考室で保存されました。その後、小塚原回向院に埋葬されました。墓は片岡直次郎・鼠小僧次郎吉・腕の喜三郎の墓に隣接して置かれています。その後、斬首刑が廃止されるため、これが日本最後の斬首刑となりました。この事件はその後、歌舞伎や小説、映画化などされたため、有名になりました。

最後に、第二次世界大戦:マレー作戦、ジョホール・バル陥落です。マレー作戦は、「太平洋戦争」序盤に日本軍の第25軍(司令官:山下奉文中将)のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦です。日本の対英米開戦後の最初の作戦でした。世界史的には、本攻撃によって「第二次世界大戦」はヨーロッパ・北アフリカのみならず、アジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したとされています。1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。これは世界の戦史上まれに見る快進撃でした。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切りました。1941年12月8日午前1時30分、佗美浩少将が率いる第18師団佗美支隊が、マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始しました。アメリカ領ハワイの「真珠湾攻撃」に先立つこと1時間20分、「太平洋戦争」はこの時間に開始されました。日本軍が宣戦布告無しで対英開戦する事は予定通りで、この時の日本軍の開戦日の暗号は「ヒノデハヤマガタ」でした。開戦直前の12月7日午後には、「マレー作戦」に参加する上陸部隊を乗せた輸送船団の上空護衛を行っていた日本軍の「97式戦闘機」が、哨戒中のイギリス海軍の「PBYカタリナ」を撃墜しました。この撃墜により、イギリス軍基地に対する日本海軍艦艇来襲の報告がなされなかった事で、その後の日本陸軍の上陸作戦を容易にしました。これが、「太平洋戦争」での最初の連合国軍の損失でした。この上陸作戦による戦死320、負傷者538、舟艇を多数を失ったものの作戦は成功しました。イギリス海軍の最新艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、日本軍がマレー半島に侵攻したとの報を受け、上陸部隊を撃滅するため、シンガポールを出撃しました。12月10日の「マレー沖海戦」にてマレー半島東方沖で「九六式陸上攻撃機」と「一式陸上攻撃機」による雷撃と爆撃を受け、撃沈されました。フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名が戦死し、イギリスの東洋艦隊が壊滅しました。これは、行動中の戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された世界初のケースで、イギリスの首相のウィンストン・チャーチルは、「あの艦が」と絶句しました。第5師団はマレー半島北端のタイ王国領内、シンゴラおよびパタニに上陸しました。佐伯静雄の挺身隊581名は戦車を先頭に、タイ・イギリス領マレー国境を通過しました。アースンの国境陣地を突破し、ジットラ陣地をわずか1日で突破しました。佐伯挺身隊の戦死27、戦傷83、英印軍の捕虜は1000名以上でした。1月6日、日本軍はスリムでイギリス軍の堅陣にぶつかりました。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は、戦車の機動力を頼りとする戦車夜襲を決行しました。7日午後11時から、「九七式中戦車」と「九五式軽戦車」が中核となった夜間突撃を敢行し、1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲して壊滅させました。こうして、イギリス軍のマレー半島有数の都市・クアラルンプールの防衛計画は崩壊しました。1月19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリで英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅し、第45旅団長を戦死させました。日本軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、イギリス軍はマレー半島内での抗戦をあきらめて、シンガポール島内へ退却しました。そして1月31日、最後の部隊がジョホール・バルを脱出し、工兵隊がマレー半島とシンガポール島とを結ぶ土手道(コーズウェー)を爆破しました。第5師団と近衛師団の先頭部隊は相次いでジョホール・バルに突入し、ここにマレー半島での戦闘は終結しました。日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い、250本の橋梁を修復しながら1100キロを進撃しました。海上機動も650キロに及びました。日本軍の損害は戦死者1793名、戦傷者2772名、イギリス軍は遺棄死体5000名、捕虜8000名に及びました。この後、日本軍はジョホール海峡を渡河し、シンガポール島へ上陸し、イギリス軍史上最大の屈辱「シンガポールの戦い」となります。

今日の誕生日:大友宗麟、徳川家康、池田輝政、フランツ・シューベルト、高松凌雲、万城目正、大江健三郎、成田三樹夫、イナ・バウアー、東野英心、ノーラン・ライアン、鈴木宗男、石野真子、高柳良一、真矢みき、光原伸、石黒賢、星野伸之、片山晋呉、今村恵子、木内美穂、香取慎吾(SMAP)、森本稀哲、薮宏太(Hey! Say! JUMP)、廣田あいか(私立恵比寿中学)、道明寺司、黒子テツヤ

今日の記念日:生命保険の日、ギョーザの日、愛妻の日、愛菜の日

今日の「今日訓」:本日は、1882年に日本初の生命保険会社・明治生命が、1月20日に心臓病で急死した警部長の遺族に保険金1000円を支払いました。これが日本初の生命保険金支払いとなった事から「生命保険の日」、ギョーザの生まれ故郷である中国では縁起の良い食べ物として「旧正月」にギョーザを食べる習慣がある事から「ギョーザの日」、1月の1を"I"に見立て、「あい(I)さい(31)」の語呂合わせで「愛妻の日」、「愛菜の日」となりました。
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