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2014年12月27日01:27

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黒田官兵衛死去

黒田官兵衛(如水)は、1604年3月20日京都伏見藩邸でその生涯を享年59歳で閉じている。辞世の句は「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」如水、水の如くにふさわしい言葉であり、死期を悟った官兵衛は領国を統治するための心構えを説いた遺書を長政に残している。葬儀は質素にすること、殉死を禁ずるなどの遺言も残している。

1603年征夷大将軍に就任した徳川家康は宮中に参内するため上京し兵衛も領地の福岡から上洛しますが、体調を崩したため有馬温泉で逗留するも病状は回復せず、京都伏見藩邸で寝込むようになり領地、福岡でなく伏見で死んだのは長年、中央で軍師として歩んだ官兵衛らしい最後だったかもしれない

福岡藩初代藩主となった長政は大坂冬の陣、夏の陣とも徳川方につき、徳川家との結びつきをさらに強固なものとしていく事になる。

3月に入ると、官兵衛は長政を枕元に呼び「そなたとも別れの時が来る。おそらく20日の辰の刻(午前7時半頃)頃だろう。幸園の老後をよろしく頼む」と自らの死を予言し、後を託したのは事実らしい

官兵衛が戦場で愛用していた合子の兜は栗山善助に与えられました。「この兜を自分だと思い、長政を子だと思って導いてくれ」死後にまで父の役割を善助に託していく。まさか孫が善助の子の筆頭家老と黒田騒動を起こす事になるとは夢にも思わず

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