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2014年12月22日06:58

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あきる野市さんぽ「西秋留・白滝神社から真照寺」

あきる野市さんぽ「西秋留・白滝神社から真照寺」

○「薬師坂」(上代継)
五日市線秋川駅から五日市街道を西に向かうと「薬師坂」があります。睦橋通りから下代継と渕上の間を北に上る坂です。坂の近くに薬師堂(今は観音寺薬師堂に移る)がありました。次の「ぬすまれ薬師」の伝説があります。
《この薬師様は、いつの頃か目玉を盗まれてしまいました。それでも霊験あらたかな薬師如来で、目がなくなってもなお眼病を治してくれたので、「ぬすまれ薬師」の名で呼ばれ崇敬されたといわれます。》

○「久保坂」(上代継)
薬師坂を南に下った睦橋通りから東に上がる坂は「久保坂」と呼ばれています。

○「白滝神社」(上代継331)
久保坂の坂上の南下に「白滝神社」があります。鎮座の年代は不詳です。社名の白滝は、境内に樹が繁茂し一条の飛泉がかかって滝となっていることによります。社伝によれば、昔「白滝の社」と唱えて、日本武尊の御霊跡として村民に厚く崇敬されていました。当地の住人・代継縫之助が、屋敷の不動明王を合祀して村の鎮守としてからは不動堂といわれていました。白滝神社本殿には見事な彫刻があり、覆殿の隙間から間直に彫刻を見ることができます。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/af677ddd5e2d8502163105022e4ccb0c
【倶利迦羅竜王】
白滝神社のすぐ西側の段丘崖からは、湧き水が流れ出て小さな滝をつくっています。この湧き水は小川となって下り、昔から付近の民家の大切な生活用水や農業用水として使われてきました。滝口には、倶利迦羅竜王の石像が建っています。不動明王の変化身が倶利迦羅竜王で、よく見ると剣に巻きついた黒竜が剣を呑む形状を示しています。
http://marunisasarindou.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-78bd.html
【獅子舞】
白滝神社での奉納舞に獅子舞があります。
http://homepage3.nifty.com/tamanokyodogeino/nishitama/akiruno/kamiyotsugi/kamiyotsugi.htm
【滝坂】
睦橋通りの南側の上代継と下代継の境あたりに、「瀧坂」が下っています。

○「真城寺」(上代継344)
白滝神社の西方に「真城寺」があります。本尊は延命地蔵菩薩。観応2年(1351)に足利基氏が開基となり、大光禅師復庵宗己を請じて開山しました。その後、寺は荒廃しましたが、天正7年(1579)に八王子城主・北条氏照が再興したと伝えられています。江戸時代中期の梵鐘や一字一石経塚などがあります。
【しだれ桜】
境内の入口にあるしだれ桜は、毎年みごとな花を咲かせ、あきる野市の天然記念物に指定されています。
【三年一座の庚申塔】
正徳2年(1712)の柱状型青面金剛。刻像塔で「庚申尊像三箇年日待成就二世安楽所」の銘文がみられます。三箇年日待は、3年間にわたった日待、つまり庚申待を続けた意味であり、「三年一座」を現しています。
【湧水】
真城寺の湧水は豊富で湧水池を成し、付近の湧水とともに小川から秋川へと流れ込みます。白瀧神社と同じく、秋川北岸の丘の斜面からの湧水です。
http://marunisasarindou.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6bfd.html
【間坂】
下代継403からカーブして北方向に上る坂を「間坂」と呼んでいます。この坂を上ると油平と牛沼の境に出ることから、この名で呼ばれるようになりました。以前はうっそうと木が茂り、大雨が降ると沢のように水が流れ、石もごろごろ転がっていて、荷馬車などは後押しがなければとても上ることができなかったそうで、魔の坂「魔坂」とも、急坂で馬が苦労することから「馬(ま)坂」ともいわれました。

○「観音寺」(渕上354)
真城寺の西方に「観音寺」があります。本尊は聖観世音菩薩。寺伝では、足利基氏の開基とされますが詳細は不詳です。嘉吉元年(1441)5月、広徳寺2世江印徳西堂和尚が隠居創立しています。参道に庚申塔、寒念仏塔、馬頭観音があります。
【薬師堂】
境内にある薬師堂は、昔、睦橋通り付近、北方の薬師坂にあったものを移したと、『新編武蔵風土記稿』に記されています。
http://www.otelife.com/showTemple/summary/pk/15265
【ぼうない坂】
上代継の西秋留小学校の南側に沿って南東に下る渕上日野線を、「ぼうない坂」と呼びます。坊坂ともいい、近くにある観音寺、東海寺(廃寺)、真城寺の坊さんたちがよく通ったので、この名がついたともいわれます。

○「渕上の石積井戸」(渕上330)
観音寺から西に向かうと閑静な住宅地の中、あきる野市開戸センターの敷地内に「渕上の石積井戸」があります。解りづらい場所にあり、看板はあるのですが小さくて見逃してしまいそうです。井戸はセンターの奥にありますが、自由に入って見学できます。石積の名前通り堅固そうな石積で構成されていて、コンクリートがない時代の人々の知恵でしょう。地表面から摺鉢状に掘り下げた窪地の底の井戸水を汲むための小道が周囲を旋回し、「まいまいず井戸」とも呼ばれているそうですが、説明板にはその記述がありません。丸い周囲にいきなり水面という形式になっており、羽村市五の神の井戸など他のまいまいず井戸とは、やや規模が小さいので異なっているからでしょうか。この井戸は、説明版によると、東西5.5m、南北7.5m、深さ3.2mとなっています。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1470
http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/a52c64e81f26f2068a639a676591290d
【開戸センターの前の石仏】
開戸センターの前に小堂があり、石仏二基が祀られています。

○「出雲神社」(渕上310)
渕上の石積井戸の西方に「出雲神社」があります。創建年代は不詳。昔は出雲大明神といい、明治維新の神仏分離れの際に現在の社名に改称しました。『新編武蔵風土記稿』によると、元は観音寺の所管でした。
【出雲神社の大椿(枯れ死)】
本殿の脇、狛犬の後ろの垣根の中に都指定の天然記念物の「大椿」があり、真紅の花が天井から降るように咲き誇っていたといいます。3.4年前に枯れてしまい、今は新しい椿が植えられています。
【出雲神社の桜】
本殿の前にある桜は、枝ぶり、大きさともに立派で境内を彩るといいます。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/7f6059b59422f4b7f1613e58e541de47

○「大宮神社」(引田944)
出雲神社の南方の坂を下って行くと「大宮神社」があります。延文2年(1357)に足利基氏が再建したと伝えます。『新編武蔵風土記稿』に、大永7年(1527)日奉宗連の棟札があったといいます。その写しが『武蔵野歴史地理』に載せられています。江戸時代は大宮明神社と呼ばれていました。
http://komainumeguri.blog.fc2.com/blog-entry-790.html
【宮坂】
大宮神社の東側に沿って、北東からカーブして北西に上る坂(今下ってきた坂)は「宮坂」と呼ばれています。
【堂坂】
大宮神社の南方、一の谷小学校の北側を北東に上る坂は「堂坂」と呼ばれています。地図には「宝坂」と誤記されています。坂の上に四間四方のお堂があり、大正の初めころまで比丘尼がいたといます。このお堂は『新編武蔵風土記稿』にいう地蔵堂のようです。地蔵淵に弘法大師作と伝える石の地蔵が流れついたといいますが、その像はこのお堂に祀っていたものであるといいます。坂上に地蔵と石造物(馬頭観音か解読不能)がありますが、お堂にあったという地蔵は一尺ばかりだったといいますからこの地蔵ではないようです。

○「真照寺」(引田863)
大宮神社の西方に「真照寺」があります。本尊は不動明王。寛平3年(891)僧義寛上人によって、秋川対岸の六枚屏風岩の日照山(南へ約500m)に創建されたと伝えられ、足利基氏が延文元年(1356)に再建したと伝えられる古刹です。享禄4年(1531)に兵火により焼け、類焼を免れた薬師堂を日照山から現在地に移したといいます。本堂は延亨3年(1746)の再建ですが、平成になってから大改修が行われました。
【山門】
山門は通称「赤門」と呼ばれています。元禄元年(1688)の再建。
【薬師堂(引田薬師)】
本堂の右側に、三間四方宝形造りの「薬師堂」があり「引田薬師」として古くから信仰を集めてきました。薬師堂は本堂より古く、神亀元年(724)行基菩薩が当地巡行の際、自刻の薬師如来像を山上に草堂を建て安置したと伝わります。室町時代初期の建築様式を伝えており、東京都の重要文化財に指定されています。堂内には、行基がこの地を訪れた際に彫ったとされる薬師如来が安置されています。
http://mikiomonya.jugem.jp/?eid=72
【石室】
薬師堂の前に「石室」があります。如玄和尚が文政元年(1818)に、この石室で即身成仏したのではないかといわれています。
【獅子舞】
引田地区の獅子舞の起こりは、大正時代の真照寺の住職の覚書によると、約440年前の伊豆の住人によって真照寺に伝えられ、時を経て今は、鹿島流獅子舞引田保存会が中心となって伝承行事を守っています。
【寺坂】
真照寺の東からカーブして北方向に上る坂は、「寺坂」と呼ばれています。坂上に行堂があって多くの僧が修行していたので、「行堂坊坂」また「真照寺坂」「坊坂」などともいわれました。
【馬乗坂】
真照寺の西側、志村氏館(後述)の馬場に下る坂を「馬乗坂」と呼びます。この坂に高札場もあったといいます。

○「熊野神社」(引田724)
真照寺の西の馬乗坂を上がり、西に向かうと「熊野神社」があります。およそ500年前の勧請と伝えられますが、寛文年間(1661〜73年)に古記録等を焼失しています。江戸時代は熊野権現と称しましたが、明治初年に熊野神社と改めました。
http://www.mikumano.net/ztokyo/akiruno3.html
【上引田はやし】
熊野神社例大祭として引田三社祭があります。
http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=1599
【茶屋坂】
熊野神社の西側に「茶屋坂」があります。志村舘跡(後述)の一部で、一説には志村氏が甲州からお茶屋をよんで、その茶を売る店があったといいますが、邸の中に商人がいたことはないことから、舘主の茶室でもあったとも思われます。
【しんこ坂】
引田と山田の境を南西に下る、茶屋坂の北西側の坂は「しんこ坂」と呼ばれています。坂名の由来不明。

○「正音寺跡」(引田715)
熊野神社の南方に「正音寺跡」があります。旧武田家臣・志村景元の開基と伝えられています。本堂などの建物はなにもなく、墓地だけが残っているようです。
【志村舘跡(引田城址)】
志村景元の居館跡(引田城址)といわれています。この志村肥前守景元は正音寺を開基したとされ、正音寺は現在、無住で引田の真照寺の管理となっています。この正音寺の裏山「中平」(熊野神社付近)に舘をかまえ、八王子城の落城の際に自刃した悲劇の武将です。地元の言い伝えに、「馬場坂で馬の訓練をし、乗馬姿の美しい殿様であった。」とあります。秋川を眺めおろす高台に位置し、館を設けるには相応しい場所と思われます。現在遺構らしきものは見当たりませんが、東隣に位置する真照寺との間にある馬乗坂は堀切跡のようにも感じます。またかつては、門坂、殿の沢、馬乗馬場、矢倉などの地名が残されていたようです。この志村肥前守景元と八王子市元八王子町の志村将監景光とは同族と思われます。
http://r500m.com/spot/125394360575534671071/blog/9703813
【門坂】
正音寺の墓地の西側に沿って北方向に上る小道(地図に記載なし)が「門坂」と呼ばれています。別名を「ごろごろ坂」といいます。このあたりは約450年前の志村肥前守の舘でした。その門に続いていた坂なのでこの名があります。

○「宝泉寺」(引田681)
正音寺の西隣に「宝泉寺」があります。後奈良天皇の天文年間(1532〜55年)に、小田原城主北条氏康が村の北東方下原旧字仏土というところに小庵を開き、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられています。
【海老沢峰章氏の碑】
宝泉寺に「海老沢峰章氏の碑」があります。宝泉寺は明治30年に大火類焼し、明治41年に再建されたそうですが、海老沢峰章氏はこの再建にも大きく寄与されたそうです。この碑文にも「寶泉寺災後之再建有巨功」(宝泉寺災後の再建の尽力するに巨功あり)と刻まれています。墓もあるようですが、確認できませんでした。
http://starling.jp/old/ebisawa/ebisawa.htm
【宝泉寺坂】
宝泉寺の西側、茶屋坂から南に続く坂が「宝泉寺坂」と呼ばれています。
【馬坂】
宝泉寺の南側、「馬坂」と表示された坂標か馬坂家の表札かどちらかの標板があります。一般的な馬坂の由来ではなく、馬坂家の前の坂なのでこう呼ばれているのだろうか、確認できず。宝泉坂から引田橋の方へ続く坂で、急坂で馬でも上るのを難儀したといいます。

○「引田八雲神社」(引田776)
宝泉寺の南方、秋川の岸近くに「引田八雲神社」があります。古くは祇園牛頭天王社と呼ばれていました。創建年代は永禄年間(1558〜70年)といわれ、檜原城主平山氏重の家臣・志村肥前守景元が当地を領していた時、尾張国海東郡(愛知県)にあった津島牛頭天王社を勧請したのに始まります。明治3年に八雲神社と改称。「お天王さま」と呼ばれ親しまれています。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/4c43610820e1a90deddebc57519e46a6

○「リバーサイドパークの谷(BBQ場)」(引田776)
引田八雲神社の南隣にある「リバーサイドパーク一の谷」。ここのバーベキュー場は、六枚屏風岩、秋川丘陵が目の前に広がり眺めも最高です。雄大な景色の中で味わうバーベキューはまた格別です。
http://www.all-tama.co.jp/area/camp/river_side.htm

○「六枚屏風岩」(引田1774)
引田八雲神社の対岸の東京サマーランドの西端に「六枚屏風岩」があります。加住丘陵の北崖に発達した土柱群で、かつて6つの土柱が形成され、それが六枚折り屏風に見立てられてその名が付きました。南北朝争乱の時代、正平7年(1352)、新田義興と小手指原(所沢市)で戦った足利尊氏が戦に敗れ、ここ六枚屏風まで逃げてきたという伝説も秘めています。
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Akirunoshi/Byobu/Byobu.html
http://blogs.yahoo.co.jp/saizebaito/49833874.html

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