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2014年12月16日07:04

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福生市さんぽ「神明社から加美上水公園・清岩院」

福生市さんぽ「神明社から加美上水公園・清岩院」

○「神明社」(福生1081)
福生駅から北西、新奥多摩街道沿いに「神明社」があります。境内の桜や楠の大木が印象的で、「神明様」「やくし様」と呼ばれ、特に梅の木が多く梅の名所になっています。明治7年当時各町会に祀られていた五柱の神々とともに七祭神を合祀した神社で、地域の安らぎを始め治水、産業、学問、衣食住等各方面にわたり功徳の高い神社です。神社付近には、数千年前福生地方の曙を告げるような縄文人の長沢遺跡がありました。
http://www.navi-tama.com/user/jinja/fussa.html
http://rover.seesaa.net/article/13338271.html
【堂川湧水(神明公園)】
神明社の西側裏手、神明公園(児童遊園)の中に「堂川湧水」があります。かつてここに小川が流れていましたが、土木工事により水源とともに消滅してしまいました。その後、住民の要望により、井戸水を使い小規模ながらせせらぎの堂川湧水が復活させました。
http://www.city.fussa.tokyo.jp/map/m1cpmb000001s7ky.html
【長沢薬師堂(長徳寺)】
神明公園の前に八角の「長沢薬師堂」があります。享保16年(1731)に創建され、堂内には薬師如来像と数体の十二神将が安置されています。長徳寺(福生613)が護持しており、すぐ下に延命地蔵・六地蔵のお堂もあります。この中に「おその地蔵」といわれる地蔵があります。
「民話・おその地蔵」
http://www.city.fussa.tokyo.jp/kids/m1cpmb000002eaf0.html

○「天満宮」(福生1838)
羽村市との境、新奥多摩街道から西に入ったところに小さな祠「天満宮」があります。江戸時代以前より、加美地区の天神講によって祀られている祠で、ご神体は木造彩色菅原道真坐像です。明治時代に神寄せが行われた際には、講の人々の尽力で神明社への合祀が避けられました。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/4a624a67c9cda4bb1d61b1db918b94a9

○「永昌院」(福生1791)
天満宮の南に「永昌院」があります。創建の年代などは明らかではありませんが、文久3年(1863)に桑林寺(茨城県)から蚕の神の蚕影山を勧請し、蚕影山永昌院として養蚕業に携わる多数の信者がいたといわれています。小さく細長い境内には地蔵堂が多く、龍が巻き付いた塔や大釜、馬やたぬきの像などがあり、不思議な雰囲気で親しみやすい、下町のお寺といった感じがあります。
【板碑】
寺では、鎌倉時代の供養塔である嘉元2年(1304)の銘がある板碑を保存しており、福生市内では最も古い板碑として市の有形民俗文化財に指定されています。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00241/contents/041.htm

○「加美上水公園」(福生1763)
玉川上水の新堀橋を渡ると「加美上水公園」があります。玉川上水沿いに横に長い公園で、多摩川の瀬音を聞きながら土手上の雑木林の中の遊歩道を歩くと、雰囲気は最高です。
http://www.city.fussa.tokyo.jp/map/m1cpmb000001zz7q.html
【金比羅宮】
新堀橋際に、海神である金比羅様を祀ってあります。過去に水難の歴史があったかがうかがわれます。
【玉川上水旧堀跡】
公園の南に「玉川上水旧堀跡」の説明板があります。元々の玉川上水は現在の場所の西寄り(多摩川側)を流れていたようで、玉川上水旧堀跡があり現在もその面影を垣間見ることができます。多摩川の洪水で、度々玉川上水の土手が壊されたため、玉川上水完成から約90年後の元文5年(1740)に、大岡越前守忠相の指示により、新堀橋から加美上水橋にかけて337間(約600m)に渡って、川岸上部に現在の新堀が掘られました。
http://www.buyo-gas.co.jp/exchange/public/jousui/jousui03.html

○「かに坂公園」(福生1185)
加美上水公園に接続して多摩川沿いに「かに坂公園」があります。河川敷の地形の変化を上手に生かし整備された公園で、遠くの山々と調和した上流方向の眺めがすばらしく、また付近には遊水池跡や砂利採取用のトロッコ道など、河川の歴史上興味深い史跡が残されています。
【蟹坂】
かに坂公園から玉川上水に上がる坂を「蟹坂」といいます。旧玉川上水が洪水で決壊したために、新しく水路を掘りかえたところです。
http://www.city.fussa.tokyo.jp/map/m1cpmb000001zyu4.html

○「観音堂(宝蔵院跡)」(福生1182)
玉川上水に架かる宮本橋の東、奥多摩街道沿いに小さな「観音堂」があります。中世に創建されたという「宝蔵院」があり、橋名も「宝蔵院橋」(宮本橋の旧名)とされていましたが、明治2年住職憲道は時勢を洞察して還俗し、宮本豊恭と改め神職に転身しました。現在は、観音堂と墓地だけが残って、檀家の人達は改宗を余儀なくされて、神事によって祭祀を行っています。橋名もいつしか宮本橋と呼ばれるようになりました。
「民話・カニの恩返し」
http://blogs.yahoo.co.jp/rakuten23/folder/1488926.html?m=lc&p=4
【かに地蔵】
宮本墓地に「かに地蔵」があります。「いぼとり地蔵」ともいわれ、供えてある小石で皮膚のいぼをこすると、きれいにとれたそうです。なお、疣、瘡を古語でカニというそうです。墓地の一角に古い庚申塔や寒念仏塔などが立っているところの奥に、かに地蔵があるようです。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/182967/161343/18757411?page=2

○「長徳寺」(福生613)
宮本橋を南西に行くと「長徳寺」があります。長徳年間(995〜998年)に創建されたと伝えられ、北条氏の尊崇を受け北条氏が滅亡したあとは衰退しましたが、延宝6年(1678)に諸堂が再建されました。境内のイチョウの大樹は福生市の天然記念物に指定されています。また、寺で保存している中世の板碑と地蔵(石造物)は有形民俗文化財に指定されています。
http://www.choutokuji.com/

○「田村酒造」(福生626)
長徳寺の先に、漆黒の塀に真っ白な塗り壁の「田村酒造」があります。文政5年創業で、「幻の酒 嘉泉」を産みだし地酒のベストセラーとして長い間日本酒ファンを魅了し続けています。嘉泉(嘉びの水)という銘柄名の元となった「仕込み水の井戸」も、見ごたえがあります。秩父奥多摩伏流水にして中硬水、酒づくりにおいて最も適した水が豊富に湧き出しています。
http://www.seishu-kasen.com/kura/
http://www.tachikawaonline.jp/sake/kasen/kura-kasen.htm
【田村分水】
敷地内に、玉川上水から「田村分水」を引き込んだ庭園を眺めていると潤いを感じます。江戸時代から酒造業を営んでいた田村家では、かつてはこの分水で水車を回して精米をしていたこともあったそうです。田村分水は田村家を出ると、畑と家の間を縫うようにして北田園、南田園地区へと流れていきます。
http://www.geocities.jp/annaka29jp/jyosuijiten/tamurabunsui/tamurabunsui.html
http://www.buyo-gas.co.jp/exchange/public/jousui/jousui05.html

○「堰上明神社」(福生592)
永田橋の北に「堰上明神社」があります。狛犬もなく鳥居と社殿だけの小さな神社です。古文書によると、昔、多摩川洪水が起こった時、ご神体(長さ5寸の妙見像)が川岸に漂着し、それを村民が関上明神と崇め祀ったことに始まります。また、玉川上水を作る時、玉川兄弟は、最初は国立の青柳で失敗し、二度目は福生に取り込み口を作ったのですが、旨く行かなくて、三度目に土木の専門家の助言を得て、羽村に変更したのです。それで、福生にも古堰があったわけです。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=1180

○「永田橋」(福生)
江戸時代、享保19年(1734)に作成された『福生村指出し明細帳』に「川舟壱そう。右ハ草花村ヨリ当村え入作仕リ当村ヨリ草花村え入作仕リ候ニ付出水ノ節こやし渡舟ニ致置候。」と記されています。また、寛政11年(1799)の『福生村書上帳』には「渡舟場1カ所あり、多摩川沿い石河原で、平素は川幅凡そ60間余り。出水の節は舟を用い冬は土橋を架ける水深二尺五寸余り。」とあります。さらに明治21年『福生村村誌稿』に「福生渡 所在は、村の西部、本村と草花村を結ぶ里道の間、多摩川にあり、水深3尺、舟は常備壱艘。毎年11月より3、4月の頃迄幅6尺の橋を架ける。」とあります。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2011/03/20l33300.htm
【福生の渡し跡】
近隣諸村から夏・秋二度新穀を取纏め費用に当てていましたが、明治8年9月官許の渡し場となります。賃取り渡船場(有料)としての運営は、村民の請負入札制で、昭和11年2月時の渡船賃は「十歳以上一人金壱銭。荷積小車、挽子共金参銭。荷積牛馬車、同金五銭。人力車、同金参銭。自転車、人、共金弐銭」で、これは平時の賃金値段で増水の際は別に決めたそうです。
http://www.geocities.jp/kikuuj/kyudo/watashi3/tama-watashi3.htm

○「柳山公園」(北田園2-8)
永田橋南の多摩川沿いに「柳山公園」があります。多摩川沿いに広がる「ケヤキの大木群」が、季節ごとに違った美しさを見せます。多摩川の瀬音と野鳥のさえずりが心地よく、対岸からの眺めも一興です。遊具がある公園部分の南側に「福生緑地」の緑地帯がありますが、福生市はそこを含めた全体を柳山公園と呼んでいます。
【桜並木】
多摩川の堤防に沿って桜並木が連なり、桜まつりの時期には桜並木に提灯がともされます。
http://www.city.fussa.tokyo.jp/map/m1cpmb000001zysd.html

○「多摩橋」(北田園1丁目)
戦後、福生飛行場に進駐した米軍が改装資材として川砂利の乱堀を続けた結果、昭和23年9月17日の洪水では、多摩橋の一部、橋脚陥没の事態が発生して交通が杜絶しています。大正9年、『道交法』が公布施行されました。それまでの渡船や簡易な木橋の整備が行われます。六郷橋、日野橋などとともに、鉄筋コンクリートの「多摩橋」が出現したのは、大正14年2月のことで、長さ207mm、幅6mありました。たちまち、「五王自動車」バスが開通(福生から五日市)しています。またこの年、五日市鉄道、八高線(八王子から東飯能)が開通しました。
http://www.freeml.com/bl/7739406/380916/

○「牛浜の渡し跡(石濱渡津跡碑)」(北田園1丁目)
宝暦10年(1760)の『熊川村村方明細帳』には「玉川 夏は舟渡し、冬は土橋架け申し候。是は西北の方より東南の方へ流れ申し候。水上 福生村、水下 拝島村、渡舟、横八尺五寸 長六間、船頭 平右衛門、助衛門」と記され、「牛浜の渡し」と呼ばれ、熊川村が管理していました。明治21年の『熊川村村誌稿』には「牛浜渡、県道、西方本郡西草花村にあり、広さ凡そ百間、時として水路変替し、一定為しがたし。深三尺。常備 人馬渡船一艘。毎年冬・春の季、幅六尺余の仮木橋を架すといえども出水の次第により一定しがたし。」とあります。以前より私設でしたが、近傍庶村の便利を計るため、明治8年に永田橋とともに公認の渡津になりました。その後、明治23年5月に河川本流の移動により対岸の草花村に管理が委譲され、以後は森山の渡しと呼ばれています。
http://www.geocities.jp/kikuuj/kyudo/watashi3/tama-watashi3.htm
【牛浜渡津跡(石濱渡津跡)碑】
多摩橋の下流には、福生市内で一番大きい「多摩川中央公園」があります。園内には、広場の他に市営グランドや湿生植物園があり、バーベキューやスポーツを楽しむ市民で賑わっています。園内を流れる玉川上水田村分水の脇には、「石濱(牛浜)渡津跡」の石碑が建てられています。渡津(としん)というのは渡し場のことで、石碑の裏には碑文として次の漢詩「石濱」が刻まれています。
《勇ましいかな新田の最小郎(新田義興)
 差原(小手差原)に賊(足利尊氏軍)を駆れば皆な奔狂す
 四十六里(小手差原より石浜まで)に風逐を成し
 足利も足蹶(つまづ)くは是れ此の場 》
また、説明板に次の説明があります。
《この碑は、昭和39年に福生町多摩吟社、福生町観光協会及び町民有志の方々の篤志によって、牛浜大坂(熊川1058)に建てられたものですが、平成2年多摩川中央公園の開設にともない、牛浜渡船場跡に近いこの地に移設しました。
足利尊氏は、観応3年(1352)閏2月20日に武蔵国人見原(府中市)・金井原(小金井市)で新田勢と対戦した。この時尊氏方は苦戦を強いられ、石浜にのがれた。尊氏は窮地を脱して、28日小手差原(所沢市)・入間河原(狭山市)などで、次々と新田勢を破った。この一連の合戦を「武蔵野合戦」という。尊氏が逃れた「石浜」の所在地については諸説があり、市内の牛浜であるという説が古くからある。》
斉藤幸雄『江戸名所図会』、斉藤鶴磯『武蔵野話』に牛浜説があります。牛浜説の根拠の一つは、太平記の石浜での戦闘記述「河の向こうの岸高く屏風を立てたる・・・」に相当する場所が、牛浜にある屏風岩がそれに相応しい地形であることを挙げています。また武蔵野合戦とは、南北朝時代の1352年(正平7年/文和元年)閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦(人見原、金井原、小手指原、入間河原、高麗原)のことです。
http://www.buyo-gas.co.jp/exchange/public/tamagawa/tamagawa17.html
http://members.jcom.home.ne.jp/nobish/ishihama.html
http://blogs.yahoo.co.jp/k_i_a_r_i/30157726.html
【民話・牛浜のあか牛】
牛浜は、古い記録に「丑浜」とありますが、当時の政略の中心地だった高月、滝山城から見た場合、丑の方角に「石の浜」が望めるので、石浜→丑浜→牛浜になったと思えないこともありません。石浜を牛浜と呼ぶようになったという民話に「牛浜のあか牛」があります。
http://www.fussakanko.jp/pa0121_09.html

○「清岩院」(福生507)
玉川上水に架かる「清厳院橋」の近くに「清岩院」があります。応永年間(1394〜1428年)に心源希徹禅師を開山として創建されたと伝えられ、正蓮寺という寺号でした。一時期寺運が衰えましたが、江戸時代に旗本加藤勘助藤原重正によって中興され「清巌院」と改称しましたが、後に現在名称「清岩院」に改められました。北条氏照から寄進を受けたほか、江戸時代には徳川家から朱印状を賜った歴史があります。本堂のほか弁天堂、鐘楼などが建ち、本堂前の「日本庭園」が美しく、この日本庭園の中にある湧水池は「東京名湧水57選」に選定されています。また境内には、七体の地蔵尊を浮彫りにした四面塔のほか庚申塔や石仏、供養塔などがあります。寺で保存する菩薩立像は福生市の有形文化財に、庚申塔は有形民俗文化財に指定されています。
http://www.fussakanko.jp/pc0112.html

○「中福生公園」(福生443)
清岩院の南に「中福生公園」があります。奥多摩街道と玉川上水に囲まれた公園で、噴水もあります。ここを流れる水がきれいなのもそのはずで、清岩院から湧き出た水なのです。
http://www.city.fussa.tokyo.jp/map/m1cpmb000001zzot.html
http://springbrunnen.seesaa.net/article/367698969.html

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