mixiユーザー(id:7184021)

2014年12月07日05:52

3257 view

武蔵村山市さんぽ「谷津仙元神社から野山北公園自転車道」

武蔵村山市さんぽ「谷津仙元神社から野山北公園自転車道」

◎『多摩の軽便鉄道軌道跡』
武蔵村山市の地図を見ていると、東西に細い一本の真っ直ぐな道があります。良く見ると横田基地で分断されてはいますが、羽村市から多摩湖(村山貯水池)まで続いています。この道は昭和3年から7年にかけて山口貯水池(現在の狭山湖)建設のために多摩川からの砂利運搬用に敷設された「羽村山口軽便鉄道」(水瓶軽便鉄道、営業線ではないので正式名称なし)の軌道跡ということです。なお、それ以前(大正5年〜昭和2年)にこの軌道敷きは使用されていましたが一旦は廃止となり、山口貯水池建設工事の際に復活したものです。今は「野山北公園自転車道」としてきれいに整備されていますが、多摩湖側にかつての鉄道を偲ぶものとしていくつかのトンネルが残っており、サイクリングロードとして4つのトンネルをウォーキングで通るようになっています。
http://www.kichijoji.gr.jp/ikaga/200811_01/index.html

○「熊野神社」(中藤3-23)
多摩都市モノレール上北台駅からMMシャトルバスに乗り神明2丁目で下車し、旧青梅街道に出て北に向かい「熊野神社」を目指します。青梅街道が大きく東に曲がる個所に建つのが熊野神社です。この地は、東大和市を流れる奈良橋川の源流にあたる「谷津地区」で、熊野神社は谷津の鎮守です。鳥居の傍に説明版があり、次の説明があります。
《江戸時代は真福寺持ちでしたが、明治時代になって愛宕神社と合祀し、谷ツの鎮守となりました。社殿内には『指田日記』(後述)の筆者指田摂津正藤詮の筆による熊野権現の額が掛けられています。祭神伊弉諾尊(いざなぎのみこと)天照大神。》
丘陵に架かる石段の上にこじんまりした社殿が建っており、陽光をいっぱい浴びた明るい感じの神社です。社殿の右には「日露記念碑」が立ち、その後ろに境内社と熊野神社神輿舎が建っています。
http://www.geocities.jp/yokanbay/musamura-kumanojinja.html

○「谷津仙元神社」(中藤3-85)
熊野神社から北側の車道を歩いても多摩湖自転車道に出て「谷津仙元神社」に着けますが、今回は山道を歩いてみました。熊野神社の下にある公会堂の前から熊野神社裏の畑沿いの道を登り、突き当りを左に行けば谷津仙元神社への尾根道にでます。途中に一の鳥居があり、しばらく歩くと谷津仙元神社に着きます。小高い丘「富士塚」の下に小振りな神社があり、社殿は文化3年(1806)に再建された古社で、神社の右手に次の「谷津仙元神社富士講」の説明版があり次の説明があります。
《谷津仙元神社富士講は、富士講を信仰行事として続けている都内でも数少ない団体です。谷津地区に富士講を伝えたのは、富士講中興の祖食行身禄から五代目の先達星行であるといわれています。この時、星行から直接教えを受けたのが、谷津の山行星命(俗名藤七)と呼ばれる農民でした。谷津講社に残る富士講文書の中には星行の署名が残されているものがあります。これらの古文書から谷津富士講が興ったのは寛政から文化期であったことがわかりました。 社の裏の小高い山は富士塚で、登山できない人たちがここに登り、富士山を遥拝しました。》
仙元神社の社名の上に「身禄山」と書かれているのは、中興の祖の名前を号しているようです。しかし神社を〇〇山と号するのは珍しく、この説明から仙元神社は富士山信仰の神社ですから、静岡県富士市にある「富士山本宮浅間神社」の「浅間(せんげん)」を「仙元」に書き替えたことが推定されます。
【富士塚】
裏手の富士塚は高さ20m、頂上は平坦で狭い広場で南方の木々の間から富士山が見えます。頂上の奥に小さな祠があり「浅間神社」と刻まれています。これで仙元神社と浅間神社が完全に繋がりました。
http://blog.goo.ne.jp/daimatsuno/e/2c4d69166eef5844e213e687a152d479
http://members.jcom.home.ne.jp/nobish/1198sengen.html

○「かぶと橋」(中央5-24)
谷津仙元神社から多摩湖自転車道を西に向かうと、約800mで「かぶと橋」があります。かぶと橋の入口にはアーチがかかっていて、その上には巨大なオスとメスのカブトムシがのっています。入口の脇には、『武蔵野の路』と書かれたコンクリート柱が立っていて、武蔵野の路は各地域の自然、歴史、文化にふれながら、東京を周回する全長270kmの散策路となっています。
http://sports.geocities.jp/dahon_p8/sayama/p6/

○「大多羅法師(だいたらぼっち)の井戸」(中央5-25)
かぶと橋から遊歩道を西に向かい左、左と歩いていけば、石段下で左手「武蔵野の路、番太池へ」の道標の道を下ります。テニスコートの前、すぐに「大多羅法師(だいたらぼっち)の井戸」があります。説明板に次の説明があります。
《武蔵村山市では、大多羅法師という大男(巨人)の伝説が古くから語り継がれています。大多羅法師という大男が、藤づるで丸山を背負い歩いた足跡が井戸になったという伝説の井戸が大多羅法師の井戸として残されています。「でびいしゃら井戸」とも呼ばれ、かつては日照りが続いても涸れたことがなかった湧き水で、飲料水として使われていたこともあったそうです。》
「村山デエダラ」まつりの「デエダラ」は、この大多羅法師からつけられたものです。
http://66896067.at.webry.info/200803/article_27.html
http://www.geocities.jp/yokanbay/musamura-daidaraido.html

○「番太池」(中藤2-27)
さらに下ると「番太池」があります。番太池は住宅街の小さな池ですが、上と下の2つの池からなり、江戸時代には御嶽の溜井といわれて付近の田畑の灌漑用水として使われていました。もちろん、現在は田畑などこの付近にはありません。謂われを聞かなければただの大きな水たまりぐらいにしか見えませんが、池畔にはベンチが用意されています。
http://www.geocities.jp/yokanbay/musamura-bantaike.html

○「赤坂トンネル」(中藤2-45)
番太池から軽便鉄道軌道跡の野山北公園自転車道・遊歩道となり、右は「御岳トンネル」、左は「赤坂トンネル」なので、ここは赤坂トンネルへと向かってみました。赤坂トンネルの反対側には、御岳トンネル、赤掘トンネル、横田トンネルと合わせて四つのトンネルがありますが、いずれも夜はシャッターが下りて通行止めとなるようです(開放時間、7:00〜17:00)。軽便軌道らしい小さなトンネルですが、コンクリートもしっかりしています。トンネル内部は照明も完備されているので、通行に支障はありません。軽便鉄道の軌道跡はしっかり残っており、自転車や歩行者の専用通路兼遊歩道になっています。

○「第5トンネル」(中藤2-45)
赤坂トンネルを出ると、直進する道(未舗装)が村山貯水池(多摩湖)につながるトンネル(第5トンネル)へといくことができます。ただ、入口は固く塞がれており、このトンネルの向こう側にはどうしても行けないようになっています。軽便鉄道の軌道跡は、このトンネルの先で多摩湖の西の端をかすめて北側へと進み、東京都と埼玉県の境にある県道の下をもう一つのトンネルでくぐって、山口観音の下をかすめて山口貯水池(狭山湖)の堰堤付近まであったということです。この第5トンネルの右上に谷津仙元神社がありますが、ただ、この間の道は整備されていません。
http://www.hotetu.net/haisen/Kanto/100320hamurayamaguchi3.html

○「赤坂池」(中藤2-43)
赤坂トンネルまで戻り東にいくと「赤坂池」があります。赤坂池は番太池と同じく上と下の2つの池からなり、入りの田んぼと中藤田んぼの灌漑用水池として使われていました。

○「御岳トンネル」(中央5-3)
番太池まで戻り「御岳トンネル」に向かいます。トンネルの手前はホタルの棲息する雑木林が両側に広がっています。自然保護のためか、両側がフェンスになっていて無粋です。御岳トンネルを出ると両側が住宅地で、すぐに赤堀トンネルです。
http://ameblo.jp/papagenopapagena/entry-11528920174.html

○「赤堀トンネル」(中央4-58)
次の「赤堀トンネル」を抜けると、山間に住宅が2軒ほど建っており、すぐに横田トンネルが現れます。

○「横田トンネル」(中央4-43)
横田トンネルは年季が入っており、蛍光灯、防犯ブザー完備で陰気な感じは和らいでいます。最後の横田トンネルで県道に出ますが、いずれも高い山をくりぬいたのではなく、切り通しにしても良いような丘陵を掘り進んでいました。ちなみにこのあたりの「横田」という地名は昔の村名で、横田基地の名前の由来ともなっています。
http://ameblo.jp/papagenopapagena/entry-11452638610.html

○「横田児童遊園」(本町4-41)
横田トンネルを出たところで、はじめての信号があります。道路を横切ると「横田児童遊園」があり、ここはもともと慶便鉄道の機関庫があった場所です。隣には元燃料庫があると書かれていますが、整備されておらず場所がはっきりしません。

○「熊野神社」(本町4-16)
横田児童遊園から南に向かうと、自転車道路一本東の住宅地の中に窮屈そうに建つのが「熊野神社」です。この地は昔、中村と呼ばれていました。ご祭神は速玉男之命(ハヤタマオノミコト)。社殿左に境内社「蚕影(こかげ)神社」が建っています。「蚕」の字から分るように、養蚕に係わる人々の信仰を集めた神社です。境内社としてはとても大きく、江戸時代に養蚕が盛んだったこの地方で信仰を集めたようです。
http://www.mikumano.net/ztokyo/musasimu3.html

○「村山大島紬(村山織物協同組合)」(本町2-2)
熊野神社から南に向かうと、かたくりの湯入口交差点南西角に「村山織物協同組合」があります。レトロな雰囲気を漂わせる建物は昭和3年の建築で、昭和初期の貴重な建築物として武蔵村山市の有形文化財に指定されています。武蔵村山の織物の歴史は古く、江戸時代の中期に作られた村山絣に始まり、消費動向の変化とともに大正時代に「村山大島紬(つむぎ)」が作られるようになりました。戦後、村山大島紬は東京都の無形文化財に指定され、さらにその後、国の伝統的工芸品に指定されました。資料室は建物の中の1階にあり、村山大島紬の数々の織物のほかに、独特の染色法(板締染色)などの製造工程を紹介し、いろいろな織物の機械や装置を展示しています。
http://www10.ocn.ne.jp/~murayama/

○「野山北公園自転車道」(本町2丁目〜中原2丁目)
自転車道に戻り、軌道跡の延長線上をまっすぐ進むと青梅街道を横切ります。そしてさらにまっすぐな道「野山北公園自転車道」へと続きますが、さくら並木のよい散歩道です。
http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=25&id=375&mode=details

○「山王森公園と富士塚」(三ツ藤3-27)
そしてこの道は新青梅街道をななめに横切り、自転車道を進むと「山王森公園」があり、横に横丁川が流れています。南の残堀川に富士塚橋が架かっており、富士塚広場もありますが富士塚は発見できませんでした。しかし、住宅地の中に富士塚遺跡(残堀5-143)があるようです。
http://park.publicmap.jp/17361
http://www.geocities.co.jp/fujisan62jpn/tamaw.html
○「馬頭観音」(中原1-17)
さらに進むと、武蔵村山高校の南側の道路分岐点に、明治44年造立の「馬頭観音」があります。右側面に「右青梅道」、左側面に「左羽村道」と刻まれた道標になっています。道羽村道とは「原江戸道」(江戸街道)のことで、この馬頭観音はここから南の江戸街道と旧青梅道との分岐点(経塚向公園の辺りか)にありました。原江戸道とは、ここから箱根ヶ崎宿を経由せず直進して、箱根ヶ崎宿の中心部から約1.3km南方の原中で日光街道と十字に交差して(現横田基地の中)、新町(青梅市)へ向かう道のことです。新町側から見て、田無まで石灰を運ぶだけのまっすぐな一本道でした。
http://www.h6.dion.ne.jp/~arc-yama/sketch/machi/doc/kishimura.html

○「江戸街道」(中原3-31)
自転車道は最終的に江戸街道(東京街道)にぶつかり、ずっと直線で進んできましたが、その先は横田基地のフェンスの手前で突然消えてしまいます。軽便鉄道があったのは昭和初期のことで、その後戦争を経て横田基地に分断されてしまいました。その先はというと、神明緑道として羽村まで延びています。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する