信仰の対象の自由が人には在り、そして人が心に描く世界は、また様々で、其処に神や仏や悪鬼を住まわせることも、地球上で生活する中で何らかの形で相互に容認される権利。
権利と言うと義務も発生するし、堅苦しいので、まあ個人や集団の自由としましょう。
唯一神を信仰しても良いし、もっと何か別の仏さまのようなものに心の救済を願うのも自由です。
人は心の自由を肉体の内側に持つ、少し変な生き物です。
神様を見たという人も居れば、神になったと評価される人も居たり。
神は人の数の煩悩や苦悩、幸福や不幸の出来事の数だけ在るようですね。
この世に生を受けて死ぬまでに、人の身はどれだけの神を内包するのでしょうか。
神や悪魔に人殺しの原因を押し付ける無責任な人も居ますが、結局のところ、一個の生命として地球の出来事に関わった場合、責任を取れる人は、実質皆無だと私は思うのです。
神様仏様精霊と言う上位精神分野を設けないと、人が傲慢になってしまうという危惧が、先人より伝えられる道徳基盤は、心のオムツみたいなもので、心のお漏らしを周囲に迷惑かけない為に機能させているようですが、人も大きくなりました。
70億の人が暮らす地球。
地球が汚れて困るのは人間と家畜と農作物だけです。
自分の幸運や不運を嘆く時、出来事から逃避する時に信仰対象のせいにしているうちは、人は人の先の生き物に変化できないのではと思えてならないです。
私の暮らす日本では、ゲームや漫画やアニメや映画で大きな敵として神が選ばれることが多々あります。
私も幼い頃は、天変地異の原因を神や魔王の仕業にする安直で稚拙な創作物に心奪われたこともありました。
神やら仏やら霊魂やらは、本当に人の上位に立つべきものなのでしょうか?
自分のあがめるものが、筆の先で生み出される時、作者は作品に従属してはいけないと思います。
人が人になる頃、火を道具に大きく変化したように、書を捨て町に出るような気軽な気持ちで、少しばかりの勇気をもって、個人として最大限に心の開放を行い、皆といろんな挑戦ができるように、そろそろ人類は次のステップに足を乗せて、醜く争う原因を神に委ねることから卒業した方が良い時代になっている。
人は、共通の話題で盛り上がるときが幸せです。
私は、自分に関わる情報の遮断を試みたことがありましたが、国家権力の管理の内側に隔離されました。
其処に神も仏も精霊もおりません。
「O(オー)」の言葉を聴きました。
「O(オー)」とは神も仏も無い「0(ゼロ)」でもあります。
私の地位、名誉、権利、義務、理性、姓名、言語、文化の放棄は短時間に行われました。
自然の中にあって、私は一個の生命として、一時的に開放されました。
弱く、無知で、愚かしく、そして肉体は死の危険に晒されました。
救いようの無い、心の置き場に困る、そういう孤独と言う名前の環境が長く続くと、人は人ではない変化した生命の心を手に入れられる可能性があります。
危険なことです。
人を辞め、その上で生きる選択をせねばならない。
とても困難な試みを、今を生きる人の多くへ、思い描いていただきたい。
人も生命です。
日々変化の連続です。
どんなに拒んでも、人は人の次の段階に進まなくてはいけないのです。
生き物として、より成熟した個を目指すことが、各々に要求される。
増えるだけなら、汚すだけなら、風呂場のカビと差異は無いのです。
人が人で終わるも、神のなるのも、仏になるのも、自由です。
人が人の次へ進むか引くかする分岐点に、仏神と言うハードルがあるのならば、私はそのハードルを飛び越えたいと願う者の一人として、これを記し公開したいと思います。
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