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2014年11月29日23:54

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黒田官兵衛、関ヶ原時に九州制圧計画の現実の意図の私的推測

黒田如水が考えた筋書きは、まず九州を制圧した上で東上し、余勢を駆って家康」と対決することでした。だが、その動きを家康察知されれば、必ずや阻止されてしまう。そこで家康の目を欺くために、東軍を援護する名目で西軍の大名を撃破することだったと言う説がある。薩摩の島津義久と加藤清正以外の諸大名は殆どが軍勢を引き連れて中央に出向いており、留守は手薄で明日のネタばれになるから書かないが官兵衛には成算があり天下を狙える力は秀吉が警戒した様に十分あった

また家康のもとに子息・長政が向かい、豊前中津の城にいた官兵衛のもとに石田三成は使者を送った。使者は書状を携えており、官兵衛、これを読む。 一枚は、家康の非道を非難するもの。もう一つは「味方してくれ」という懇願じみた勧誘状。官兵衛は使者に治部(三成)に味方すれば、褒賞はどの位か聞いている。使者は「褒賞も秀頼様よりじきじきに賜ります」と答え官兵衛は九州で構わん。この九州に7ヶ国ほどを賜りたい。お約束いただけるなら、異論はないと言ったらしい。使者は九州7ヶ国などとばかげていると思ったらしい。勿論、官兵衛は、三成が嫌いだった。秀吉から警戒されて、働きの割には微禄に甘んじてたので、この隙に実力で「九州7ヶ国」を手に入れてしまおうとして現実に制覇するのだが…。結果、関ヶ原は想像より早く集結し家康により息子、長政に筑前52万石で終わる。

私は天下でなく三成との交渉から最初から手ごわい島津を除いた九州7ケ国を占拠したことから、どさくさ紛れに領土を増やそうという目論見は確実にあった。それが実際の官兵衛の秀吉や三成への意地ではなかったかと言う気がするが実際はどうだったのかはわからない

ただ、九州地方でも主力軍が出払っているが黒田家も同じ条件で島津を除く九州7ケ国を制圧した官兵衛の力は流石で、昨日も書いたが姪でも嫁入りさせ黒田家を野放しにしたくなかったのが家康の実際の感情ではあっただろう
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