国立市さんぽ「矢川・府中用水から谷保天満宮」
○「矢川緑地保全地域」(立川市羽衣町3丁目)
JR南武線西国立駅の南、徒歩10分。「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づいて昭和52年に指定された地域で、その後拡張されて現在に至っています。域内は湿性植物保全地域、林床保護地域、サンクチュアリなどの区域で構成されています。コナラ、ケヤキ、カツラなどの雑木林が繁り、中央部には湧水池があります。澄み切った小さな流れの矢川の周辺には、貴重な湿地性の植物が数多いです。全体の広さは約2ヘクタールで、散策路や木道が整備されています。それほど規模は大きいとはいえませんが、後世に残そうと自然環境がよく保全されています。この矢川緑地保全地域と谷保の城山歴史環境保全地域を結ぶ「雑木林のみち 矢川・青柳コース」が整備されており、武蔵野の面影をたずねながらの散策が楽しめます。
http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/area/07_yagawa.html
【矢川弁財天(蛇神社)】(立川市羽衣町3-29)
矢川緑地保全地域からみのわ通りを越えると「矢川弁財天」があります。社殿前の中庭の白龍橋脇には、ハケ(青柳段丘)から豊富に湧き出た湧水を集めた池があります。社殿の前には、とぐろを巻いた白蛇が左右に鎮座しています。弁財天の使者が蛇とされていることから、弁財天の信仰には蛇、とくに白蛇を崇める信仰があり、また人頭蛇身の宇賀神を祀る風習があります。また、矢川弁財天が箕輪城の鬼門よけの神社だという説もあります。箕輪城というのは立川氏の一族の城(舘)で、光西寺のあたりにあったようです。
http://blog.goo.ne.jp/ruribo0209/e/806b1cddda458c2bfeb417b3f691c88b
【箕輪城址(光西寺)】(立川市羽衣町3-20)
武蔵七党の西党から出た立川氏の立川氏館の出城であったと考えられています。現在の光西寺のあたりが本郭とされています。当時は、矢川を堀代わりにした段丘を利用した城ではなかったかと思われます。
http://utsu02.fc2web.com/shiro804.html
○「矢川いこいの広場」(国立市青柳1-18)
国立第六小学校の西側に、「矢川いこいの広場」があります。立川にある湧水を源流とする矢川が流れる公園で、子どもたちが自然のままの川で遊べる公園です。小魚やザリガニもいます。矢川には、ナガエミクリという珍しい水草が長い葉をそよがせています。この水草は、川岸の浅いところでは、7〜8月の花の咲くころには立ち上がって咲きます。
○「府中用水取入口」(谷保310)
多摩川サイクリングロードを行くと、多摩川に合流する府中用水の取入れ口は、国立市と立川市の境界近くにあります。明治33年に造られたもので、門数4扉は全国でも有数の規模と古さだといいます。取入れ口近くに建つ府中用水竣工記念碑(1951)は、水道管に石碑を埋込んだおもしろい形をしています。説明板に次の説明があります。
《府中用水は、多摩川の水を青柳南で取り入れ、谷保南部を通り、府中まで導く農業用水路です。江戸時代には、府中宿のうち本町、番場宿、新宿と、是政村、上谷保村、下谷保村、青柳村の合計七ヶ村が管理していたため、「七ヶ村組合用水」と呼んでいました。いつ、どのように造られたかについては、明かではありませんが、一説には、江戸時代(1652年頃)に羽村の玉川兄弟が、青柳から府中までの上水路を計画し、途中まで掘り進んだところ土地の高低差が激しく断念、後の人がその跡を利用したと伝えられています。この下が用水の取入口です。毎年、田植えの前に水を取り入れ、田を潤し、秋の収穫前に水を止める光景が、風物詩となっています。》
http://members.jcom.home.ne.jp/2231247101/fuchu-yosui.htm
○「伊藤単朴の墓」(青柳347)
府中用水取入口から西に行くと、すぐに「伊藤単朴の墓」があります。説明板に次の説明があります。
《伊藤単朴(本名・半右衛門)は、延宝8年(1680)江戸石町に生まれ、宝暦8年(1758)当地で他界した江戸時代の談義作者です。その半生を青柳で過ごし、文筆活動に取り組みました。単朴は生涯に、『教訓雑長持』、『里俗教談・銭湯新話』、『教訓差出口』、『不断用心記』などの書物を著しました。その作風は教訓的な内容で、民衆教化のために貢献したと言われています。》
http://blog.goo.ne.jp/home-goo/e/cc8aad4fbdfe9d31b9a9dc321890d54b
○「青柳稲荷神社」(青柳236)
府中用水に沿って東に向かうと、「青柳稲荷神社」があります。説明板に次の説明があります。
《青柳は、その昔、現在の府中市本宿の多摩川南岸の青柳島にありました。寛文11(1671)年多摩川の大洪水により青柳島は流失し、一時四ツ谷村に避難した後、現在地に移住し、青柳村を開拓しました。青柳稲荷神社は、青柳・石田の鎮守です。祭神として稲蒼魂命・大巳貴命・大田命・大穴姫命・保養命の五神を合祀していることから五社稲荷と呼ばれました。本殿は一間社流れ造のこけら葺きで、建築年代は宝暦5(1755)年です。拝殿は入母屋造りで建築年代は19世紀中頃です。本資料は、江戸時代における村の鎮守としての形態をよく保存していること、また谷保天満宮の本殿・拝殿の細部様式に類似性が認められ、同一の大工による建築の可能性があることなど、重要な遺構であると言えます。》
○「ママ下湧水公園」(矢川3-15)
さらに府中用水に沿って東へ向かうと、「ママ下湧水公園」があります。この辺りも高さ8m前後の段丘崖が連なる青柳段丘エリアで、崖下には湧き出した清水が流れる美しい小川があり、昭和初期までこの一帯にはわさび田が広がっていたといいます。現在は湧水公園として整備されており、市民の安らぎの場となっています。公園西端にある「湧水の池」に思いきって水の中に足を入れてみると、新鮮で冷たい水と川底の小石が、歩き疲れた足を心地よく刺激し、さやさやと吹く樹木の風にすっと汗がひいていきます。
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Kunitachi/Mamashita/Mamashita.html
○「矢川おんだし(矢川・清水川・府中用水の合流点)」(谷保)
矢川が滝乃川学園の敷地を南側に抜けると、段丘の下を東に流れる府中用水の谷保方面への支流に合流して終わります。合流地点は「矢川おんだし」と呼ばれています。右側の流れが矢川、左側の流れは青柳段丘の崖線下に湧き出している「ママ下湧水群」から流れてくる清水川です。水温が最も高い府中用水と、しばらく流れて来たことでやや水温の高い矢川、そして、湧水からすぐに流れ込むため最も水温の低い清水川、この三種類の温度の川の水がここで混じり合っており、それぞれに棲む水生生物もここまで来るため、様々な水生生物が見られます。府中用水は5月中旬から9月下旬までしか多摩川からの水が入りませんが、谷保方面の支流には矢川と清水川の水が流れ込むため、矢川おんだしより下流は通年水が流れています。
http://ameblo.jp/pianist-asagaya/entry-11101817636.html
○「南養寺」(谷保6218)
郷土文化館の北側に「南養寺」があります。郷土文化館の脇を通っても行けますが、道路を迂回すれば正面の総門に出られます。安永9年(1780)建築の総門を入ると、正面に大悲殿、左手に大きな本堂が建っています。本堂は総門に対して背を向けて建っていますが、元々は旧甲州街道に向かって建造されていたためです。南養寺の開山は鎌倉時代の物外可什禅師、開基は立川入道宗成と伝えられています。本堂は文化元年(1804)の建築で、禅宗の客殿型本堂としては貴重な建物で、本尊の釈迦如来坐像を祀っています。大悲殿は、市指定有形文化財の「十一面千手観音坐像」を安置するため、享保3年(1718)に建立されたと伝えられています。また、本殿前に建つ鐘楼も天明8年(1788)建立の貴重な建造物で、梵鐘は安永6年(1777)に下谷保村の鋳物師が造ったもので、戦時中も供出を免れたという名高い鐘です。
http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=5&cate1=3&cate2=2&id=170&mode=details
○「くにたち卿土文化館」(谷保6231)
現代的なガラス張りの建物で、国立の歴史や文化、自然、芸術などに関する資料を展示しています。ここでは、河岸段丘や谷保天満宮についての詳しい展示もあり、見学して知識を深めればよりウォーキングが楽しめます。
http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=5&cate1=13&cate2=7&id=168&mode=details
○「城山公園」(谷保1700)
卿土文化館から東に向かうと、「城山公園」に出ます。ここは湧水が流れる植物公園で、樹林の中を散策できます。公園内は静かで居心地が良いのか、あちこちで猫の姿を見かけられます。
http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=5&id=494&mode=details
http://www.h2.dion.ne.jp/~tyosakai/zyoukouen.htm
【古民家(旧柳沢家)】
城山公園の隣には、風情ある古民家(旧柳沢家)が一軒建っています。この古民家は、江戸時代後期の建築と推定される茅葺き、入母屋作りの家屋で、青柳村(現国立市青柳)に建てられていた農家・旧柳澤家住宅を移築、復元したもの。ちなみに柳澤家の屋号は「たくあん屋」で、明治から昭和初期にかけて漬物業も営んでいた豪農です。館内では年間を通して伝統行事を再現している。古民家の中に入ると、農具や調度品も置いてあり、また家屋の保存のため、居間の囲炉裏には火が入っています。木の温もりと開放的な空間が安らぐ縁側の先には、つるべ井戸のあるノスタルジックな庭の風景が広がり、ここはひねもす静かで心地よいところです。
http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=5&cate1=3&cate2=9&id=169&mode=details
【谷保の城山(三田氏館跡)】(谷保6003)
北へ登る道に入ると「城山」と書かれた石の門があります。門の奥へと入ってみると、ケヤキやコナラ、竹、ヤツデなど様々な樹木が繁る林の中に、稲荷社や古井戸の跡が残っています。ここは、「城山(じょうやま)」と呼ばれる中世の三田氏居館跡で、都の歴史環境保全地域に指定されています。比高差8mほどの青柳段丘崖を利用して造られた室町時代初期の城跡であり、土塁と空堀、方形の特徴的な郭が残されています。城主は、鎌倉時代初期の豪族であった三田貞盛とも、また、菅原道真の子孫で源実朝の臣であった津戸三郎為守ともいわれていますが定かではありません。ただし、入れるのは中央民家の手前まで。ここは個人の敷地・住居となっているので、奥へと立ち入るのは遠慮しましょう。
○「谷保天満宮」(谷保5209)
武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた一帯が、「谷保天満宮」の境内です。JRの駅名は「やほ」ですが、こちらは昔の地名と同じく「やぼ」と読みます。なんと1000余年の社歴を持つ、関東最古の天満宮です。谷保天満宮は、延喜3年(903)の創始で祭神は菅原道真公、湯島・亀戸と並ぶ関東三大天神のひとつです。通称「やぼてん」といわれる谷保天満宮ですが、江戸言葉の「野暮天」の語源となったといわれています。その由来がまた興味深く、菅原道真公が醍醐天皇時代に筑紫へと配流になった時、同時にその子三男道武は多摩郡分倍庄栗原郷(現在の谷保)に流されていました。その後、延喜3年に父道真公の訃報を聞いた道武は、悲しみに打ちひしがれながら父の坐像を彫り、これをご神体として祀ったのが天満宮の起こりです。ところが、このご神体の彫刻があまりにも素人っぽい造りで、できが良くなかったため、それを見た人々が「やぼてん」の名をあか抜けしない極めて野暮なことを意味する言葉として使い、江戸の流行語になったといいます。ほかにも、こんな一説があります。安永元年(1772)、江戸の目白不動尊へ出開帳した時、それがたまたま10月で、日本中の神様が出雲に集う神無月であったため、出雲に行かずに江戸の町に出向いていた谷保天神を皮肉って詠んだ歌「神ならば出雲の国へ行くべきに 目白で開帳谷保の天神」が語源になったともいわれています。いずれにしても、当時10歳だったという道武が彫ったご神体は、秘宝のため非公開となっており、その語源の由来の真偽は分かりません。
【境内のチャボ】
天満宮の境内を歩いていると、なぜかチャボの姿を沢山見かけます。これは、谷保天満宮の秋の例大祭で奉納される古式獅子舞の装束用の羽を調達するため、数十年前に様々な鳥を境内で飼い始めたのが始まりだそうです。結局どの鳥の羽も形が合わず、外国から羽を調達することにして全ての鳥を放したそうですが、なぜかチャボだけが境内に残り、今もなお棲息し続けているのだといいます。
【常盤の清水】
天満宮本殿の裏手に回ると、弁財天を祀った厳島神社とその周りを囲むように小さな弁天池があります。この池の水は西側の「常盤の清水」から湧き出した水で、池の底がはっきり見えるほど透明度が高いです。常盤の清水は常に豊かな水量で枯れたことがなく、昔は付近の人々の井戸として利用されていました。
http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=5&id=52&mode=details
http://www.yabotenmangu.or.jp/
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