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2013年06月28日11:36

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読書日記(6月24日)

今日から仕事始めで、早起きして事務所まで歩いて行ったのだが、書類手続きが終わっていないのでまた明日来てくれとのこと。先週中に学長室から人事の方に3度ほど連絡をしたが、返事がなかったとの由。余程いい加減な人事課だが、それで放っておいた学長室のほうも相当暢気だ。腹が立つのだが、誰に対して怒るべきなのかわからないので、とりあえず大学の官僚システムが悪いということにしておく自分も負けずに怠け者なり。

仕方がなく、炎天下に家路に着く。帰りがけに読書日記用の手帳やペンなどを物色するが、長持ちしそうなものは結構値が張るので、買うのは控える。ちょうどfacebookが何の役に立つかよくわからないし、ミクシィもしばらく日記を書いていないので、これを手帳代わりにすることにする。でも、日記とは記録であり、後で自分が読んだことを忘れないようにしたり後世の人に読んでもらったりすることにある。この仮想の空間で瞬時に共有される文章は、どちらかというとその場かぎりの出来事や感想をその場かぎりで共有し消費していくためのものらしい(フィードという言葉が使われるようだけど、どうも牛馬や鶏にやる餌のような印象)。取り立てて他人を喜ばす意図もないものを、記したそばから公開していくのはソーシャルネットワーキング道にもとるのかもしれないが、指摘されないかぎりは紙とインクの節約と考えることにする。

お昼過ぎから、昨日に引き続き「読者から見たる自然派小説」など柳田の初期の文学関連の文章を読む。花袋の『東京の三十年』などを読むと、柳田は官僚としての仕事や『郷土研究』での執筆の傍ら、盛んに文壇の仲間に混じって文学を論じているのがわかる。詩を捨て農政官僚の道を選び、文学者として身を立てることは放棄したとはいえ、文学への未練はこの時点では切れていないらしい。『遠野物語』は民俗学の原点ではなく、自然主義文学に代わる「現実」描写の方法や対象を示した文学作品として読むべきというOrtabasiの指摘も頷ける。他方で、「言文の距離」や自然派小説批判などを読むと、細かい写実ではなくコミュニケーションの結果を重視する姿勢など、彼の文学観は民俗学にも引き継がれている。嘘はいかんけど、余計なことは書かないほうがよいという主張も、柳田の多くの沈黙とかかわりがあるべし。農政学と民俗学の間だけではなく、文学と民俗学の間ももっと考える余地あり。他方、これほどまでに柳田に深くかかわりあうことが、政治学という分野で身を立てようとしている自分によいことなのか悪いことなのか、若干不安なり。

板坂耀子の『江戸の紀行文』の言うとおり、「旅行の趣味」では貝原益軒の紀行文を褒めていた。芭蕉への言及はないが、紀行文は悲壮なものではなく楽しく役に立つものでなくてはならないということも書いてある。旅の精神性より実益を重視する江戸の紀行家を評価する先駆なのかもしれないが、他方で柳田の紀行文からは常に己の旅愁や人々の悲哀が漂って、ロマン主義が抜け切れていないところもある。「旅の趣味」ではちょっと強がっているのか。淡々としながらも情感にないがしろにしないのは、むしろ本居宣長に通ずるところがある。本など読まずに旅をという主張はルソーの影響だと思ったが、宣長なのかもしれない。板坂の本があまりに入門の域を出ないのが残念であったが、原文を読まずに済まそうというこちらの態度に問題があったのかもしれない。

水田洋の『思想の国際転位』も読みはじめる。

夕食は先週から作り置きしておいたミートソースでパスタ。一週間も続くともう腹を埋めるだけだが、これがいちばん安く手間がかからない。貧乏が身にしみるけど、余計な雑念なく学問に専念できるので却ってよいのかもしれない。
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