mixiユーザー(id:2145604)

2013年03月06日10:09

1981 view

第二カトレア荘−知られざるまんが梁山泊

ネットサーフィンして見つけたブログ
http://blog.goo.ne.jp/hitorimushi-babeltower/e/752651e08f80f5d4c1ac151b80bfe0a1
に北海道新聞のコラムに忠津陽子氏と大和和紀氏が共同生活を送ったハナシが載っていたと掲載。

当の新聞記事を読んでみると
--------------------------------------------------------------------
大阪万博の2年前の1968年5月。札幌駅から同じ列車に乗り込み、二人の若い女性が東京をめざした。
後に源氏物語を漫画にした「あさきゆめみし」をはじめ、幾多のヒット作を生んだ大和和紀―札幌市出身、東京都在住―。もう一人は「美人はいかが?」などの作品で少女漫画におけるラブコメディーを確立した忠津陽子―同―。二人は漫画家になるという大きな夢を抱いていた。
大和は札幌の短大在学中に、忠津は専門学校時代のほぼ同時期にデビュー。互いに別の東京の大手出版社から誘いを受け、一緒に上京することになった。パソコンもフアックスもない時代、上京は漫画家になる早道だった。
大和と忠津は中野区の鷺宮の2階建てアパート「第二カトレア荘」に落ち着いた。2階の隣同士で家賃は9500円。風呂なし台所付きの4畳半だった。

漫画づけの日々が始まった。土地勘がなく、頼る人も少ない東京暮らし。毎日交互に部屋を訪ねては机を並べ向かい合って仕事をした。その部屋の主が食事当番になった。
掲載誌は大和が「週刊少女フレンド」、忠津が「週刊、別冊マーガレット」。朝から夜まで描き続けた。
編集者の要求は過酷とも言えた。締め切り間際になっても原稿が仕上がらない。『助けて、朝までに間に合わない』。夜中に何度互いの部屋のドアをたたいて起こし、人物や背景を描くのを手伝ってもらったことか。夏場、銭湯に行けない日が続くと、小さなビニールプールを台所に広げ、汗を流した。
大和は「絵が下手な自分にとって編集者が渡す仕事はけいこ。私は決してつぶれない」と言い聞かせた。忠津は「次の仕事は来るのか。何ページもらえるのだろうか」と期待もし、不安にもなった。
共同生活を送る中で、大和は「忠津さんは絵が本当に上手。カメラのような描写力を備えた目をもっている」と気づき、一方の忠津は「大和さんは食事を作りながらでも、ストーリーを考えられる稀有な才能の人」とうらやんだ。

2年後、二人は「第二カトレア荘」を巣立った。大和は「はいからさんが通る」「ヨコハマ物語」などを世に出し、さらに発行部数が計1700万部を数え、受験生のバイブルとまで呼ばれた「あさきゆめみし」の大ヒットを重ねた。
デビューから40年以上、第一線を走り続ける大和は今、戦国時代の女性、小野於通の生涯を描いた「イシュタルの娘」を漫画雑誌に連載中。古文書を読み、文献を調べ、信長の時代から江戸初期までを生きた「芸術家であり、フィクサー(黒幕)の一面をもつ於通」に挑む。
女性向けの漫画雑誌としては珍しい戦国ものに、なぜあえて挑戦するのか。「わたしは北海道出身。フロンティアスピリッツ(開拓者魂)があるのかしら」と大和。
「イシュタルの娘」の単行本第1巻の重版が決まったと知った日、大和は笑顔を浮かべた。「作品は読者との真剣勝負です。だから、重版は心底うれしい」
忠津もその後、「ハロー!王子さま」「結婚の条件」など多数のヒット作を世に送った。現役を退いたが、4年前には復刻版「美人はいかが?」が出版され、多くのファンがあの時代に思いをめぐらせた。
二人の出発点ともいえる「第二カトレア荘」は、すでに取り壊され、今はマンションが立つ。

(敬称略)
--------------------------------------------------------------------
知りたかったことの7割は載っている。
・1968〜1970年という期間
・中野区鷺宮という地名どころか「第2カトレア荘」とのアパート名
・漫画を書くことの奮闘記

あと議論がこのアパートであったのか、と
集った仲間が(河あきら先生の)他にいたのか
が記事中にあったなら…

まぁ、漫画論は交わさずには過ごせなかったのではないか… とも想像できる。
理由は多々あるが、二人とも売れっ子と言っても月60枚ぐらいで時間はある程度はあったハズ…
しかも、大泉サロンのメンバーと同じく議論好きで有名な団塊世代に両者とも属している。
まあ増山氏のようなイデオローグがいなかったからテクニック論に走ったかも知れないが、時代はCOM真っ盛り!記事のような青春漫画奮闘記だけではなかったハズ。

実は、吾妻ひでお氏から「札幌での北海道ぐらこんで忠津陽子に酷評された」なんてエピソードを聴いたことがあって、鋭いまんが観もあるんだと感じたことがある。まあ、そうでなければトッププロにはなれないか(笑)

トキワ荘や大泉サロンと並んで語るべき梁山泊かも知れない>第2カトレア荘


#忠津陽子氏と大和和紀氏の絵が見わけらると豪語していたが、手伝った部分が此れだ!とは流石に指摘は出来ないぞ…あせあせ(飛び散る汗)
2 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する