お久しぶりです。お元気ですか?
岩名雅記です。
大阪,東京、札幌での新作映画「うらぎりひめ」上映のため10月16日に帰国しました。
大阪上映(全三作)が終わり、10月26日より11月8日まで東京渋谷アップリンクで毎夜8時30分からレートショー
が始まっています。http://
また札幌は11月1−4日に旧作含む全三作上映です。
出来ますれば今回是非ともごらんください!
前回御覧いただきましたが、恐らく私の映画を御覧になった方はあまりおられないと思いますのでご友人に是非お声がけいただきたいと思います。
詳細は http://
またはフェースブックfacebook.com/uragirihimeへ。
また10月1日より日本版クラウドファンディング「モーションギャラリー・独立映画鍋」サイトに私の次回映画作品「CHARLOTTE/すさび」の公募寄付金募集要項が掲載されています。
ネットのある方はhttps:/
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<孤独の豊かさ=映画の豊かさの体現と、孤独を恐れぬ者の倫理>
まさに3.11以降の、今の日本人の心ある人々が最も叫びたいであろう言葉が終盤に朗々たる凄みで語られていて感服する。
かねがね日本の野田総理の、国民の方を一切見ようとしない、官僚の言いなり態度に何度も辟易してきたが、この映画には国民の魂の怒りとして上げるべき声と言葉が存在する。
と同時に、特に「過去篇」における孤独な身体性を生きることから拡がる豊かさの描写にこそ、孤独であることの充実と豊かさがダイレクトに体現されている。
思えば映画そのものであることの豊かさとは、孤独であることの豊かさそのもののことだと思う。
これまでゴダールやブレッソンやドライヤー、ペドロ・コスタやスコリモフスキーのような本物の映画監督は作品のテーマは色々違っても、映画そのものの豊かさとは孤独の豊かさであることをこそ捉え、それを視覚化してきたと思う。
たとえばスコリモフスキーの「アンナと過ごした4日間」の、男の孤独な生々しい生の充実感。
ペドロ・コスタの「ヴァンダの部屋」に映っている孤独に感じられる豊かさ。
古い映画ではカールThドライヤーの「裁かるるジャンヌ」の、あのジャンヌ・ダルク=ルイーズ・ルネ・ファルコネッティの裸に剥かれたような、孤独で過酷なジャンヌの生そのものと、孤独な戦いを生きてきた=孤独の豊かさを体現している「裸形の孤独な顔」。
ロベール・ブレッソンの「抵抗」も、脱獄するまでの孤独な手作業がメインで捉えられている映画だが、ここではサスペンスと人間の人生のプロセスが暗に描かれているのと同時に、この孤独な手作業のアクションの豊かさ=孤独の豊かさがそのまま映画の豊かさになっている。
しかしながらもうそういう瞬間というか豊かさを撮れる映画監督は絶滅寸前な状態だが、岩名監督のこの作品にはそんな映画の豊かさ =孤独の豊かさが溢れているように思う。
それと同時に、後半自身の地位や名声を捨てても、一人行動に出る老いたヒロインの孤独とは、孤独の豊かさであると同時に、まるでかっての若松孝二が「性賊 セックスジャック」や「天使の恍惚」などで言っていた、孤独を恐れぬ者だけが真の変革者の倫理を貫徹出来るということそのものであるようにも思われる。
つまり孤独の豊かさ=映画の豊かさの体現と同時に、孤独を恐れぬ者の倫理まで描き込まれているような実に得難い稀有な映画を実現している。
今の時代、ひきこもりや孤独死、閉じこもりが問題視され、一概に悪いことだなどと決めつけられる傾向もある。
それをつまらない社会問題にしたり、根拠のない不安ばかり煽って、孤独の充実と豊かさに気づかせようとしない傾向も散見される。
だからこそ孤独を恐れぬことの倫理を圧倒的な凄みで描き切っているこの作品が、多くの孤独な人々にとっての意思力になればとても有意義なことであるようにも思う。
たむらまさきの鋭いカメラワークや役者たちの存在感も実に見事である。
もはや稀有な得難さを湛えるこの作品には、敬服するばかりである。
大口和久(批評家)