「枝なくして、咲く花はなし。」
当コミュニティでは、自分の睡眠時間を削ってまで、働き続ける枝野幸男官房長官に敬意を表し、皆で枝野氏同様に、枝ることを最終目標とします。(無論個々人にできる範囲で)
【枝る(えだる)】:動詞
(1)極限まで睡眠を取らないこと。寝る間も惜しんで働くこと。
(2)上司に恵まれず必要以上の努力を強いられること。
・枝野さんのようになりたい
・最近自分が頑張っていると思う
・一日一枝野、欠かさずに続けている
・不眠症、みんなで枝れば怖くないと信じている
・枝る気はないが福耳フェチ
・枝る気はないがアヒル口フェチ
・生徒会長から政調会長までこなす枝野さんをリスペクトしている
・ていうかなんとなく楽しそう
・うちの子には、枝野さんみたいになってもらいたい
・第一回エダリンピックでの金エダリストをひそかに狙っているのは私だ。
・スーツよりつなぎのほうが萌える。枝れる。
・「枝る」は流行語大賞狙えると思う。
当てはまる方は当コミュニティまでどうぞww
枝野氏のプロフィール(wikipediaより抜粋)
1964年5月31日栃木県宇都宮市にて誕生
父方の祖父によって尾崎行雄にちなんで幸男と名づけられ
自身の名前の由来を聞かされたことが影響し、
「物心がついた頃から政治家を志望していた」
中学校時は「生徒会長を務めた」
高等学校時代は校内の「弁論大会で3年連続優勝した」
また中学・高校と合唱部に所属し、中学2年・3年では「2年連続でNHK全国学校音楽コンクールで全国優勝している」
1993年、日本新党の候補者公募を見つけて応募し合格。当時初の公募による候補者として第40回衆議院議員総選挙に旧埼玉5区から日本新党公認で立候補→手作り選挙を貫き見事当選
1995年から薬害エイズ問題を追求し、真相究明と和解を実現して一躍注目された。1995年1月に薬害エイズ裁判の原告弁護団から接触を受け、国の責任を確信。8月、井出正一厚生大臣と被害者の面談を官僚に内密に実現した。
1997年旧民主党「政調会長に就任」
同年5月に、社民党出身議員の族議員的体質に批判的な旧民主党内の若手衆院議員による政治集団「2010年の会」を立ち上げ、代表世話人となる
1998年、野党議員となってから、夫婦別姓の選択を可能にする民法改正案、行政監視院法案、臓器移植法案、児童買春・児童ポルノ禁止法案などを提出。
法案の提出数と委員会での発言数は群を抜いていて、「議員立法ブーム」の中心人物となった。
1998年4月民主党結成に参加し、「政策調査会筆頭副会長に就任」
金融国会では、金融再生法成立に関わる。この時、大蔵官僚や守旧派議員を排し、専門知識を持つ若手政治家の間で協議を重ねて法案が作られたことが、新しい政治の形として注目され、塩崎恭久、石原伸晃らとともに「政策新人類」と呼ばれた。
2002年菅直人が党代表に返り咲くと政調会長に就任し、次の内閣の「官房長官」となった。
2005年政権戦略・報道担当の「幹事長代理に就任」
2010年1月に仙谷が国家戦略担当大臣を兼任することとなり、仙谷を補佐するため首相補佐官に起用されることが発表される。しかし正式に任命されることはなく、仙谷の兼務を解く形で「行政刷新担当大臣に就任」
5月末、菅直人代表の下、「民主党幹事長に就任した」 7月、幹事長として戦った参議院選挙では改選前から10議席減の44議席獲得に留まり、参議院での過半数割れを許す。9月の内閣改造に伴い幹事長を退任となり、後任の岡田克也の要請により幹事長代理に就任した。
2011年1月14日に行われた内閣改造により、菅第2次改造内閣の内閣官房長官に就任した。また、前原誠司外務大臣が政治資金規正法で禁止されている外国人から献金を受けていた事による責任を取って辞任したため、3月7日に「外務大臣臨時代理に指定された」
その後の活躍は日夜報道されている通りです。