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ポール・クローデル

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詳細 2020年11月21日 09:05更新

ポール・クローデルに関心のある人、あつまりませんか。

ポール=ルイ=シャルル・クローデル(クロデル)(Paul-Louis-Charles Claudel Claudelの発音例, 1868年8月6日 - 1955年2月23日)は、フランスの劇作家、詩人、著作家、外交官。女性彫刻家のカミーユ・クローデルは、姉にあたる。1868年、北仏エーヌ県のヴィルヌーヴ=シュル=フェール(Villeneuve-sur-Fère)村で、父ルイ・母ルイーズの4人の子の、末子に生まれた。収税官の父の転勤で幼時を転々としたのち、1881年、パリのルイ大王高等中学校に学んだ。1884年、バカロレアに合格して哲学級へ進級し、級友のロマン・ロランとコンサートへ通い、また、文学に親しんだ。1885年、パリ大学法学部へ進んだ。

1886年、ランボーの『イリュミナシオン』と『地獄の季節』を読んだ。カトリシズムに回心し、また、1887年からマラルメの「火曜会」に出席するようになった。詩作し、戯曲を書いた。1890年、外交官試験に首席で合格し、本省商務部の専門職員となった。1935年に退官するまでの、外交官としての経歴は次のとおりであった。在任中も、文筆を怠らなかった。

* 1890年2月、『フランス』外務省商務部
* 1893年3月 - 1893年12月:『アメリカ』。ニューヨーク副領事、ボストン領事事務扱い
* 1895年7月 - 1909年8月:『清国』。上海領事館、福州副領事館事務扱い、漢口副領事館事務代理、福州領事、北京公使館一等書記官、天津領事館事務取扱い、天津領事
* 1909年12月 - 1911年9月:『オーストリア=ハンガリー』。プラハ領事、総領事
* 1911年9月 - 1914年8月:『ドイツ』。フランクフルト総領事、ハンブルク総領事
* 1914年8月 - 1915年10月(第一次世界大戦期):『フランス』。外務省
* 1915年10月 - 1916年7月:『イタリア』。経済特使としてローマ
* 1917年1月 - 1918年12月:『ブラジル』。リオ・デ・ジャネイロ二等全権公使
* 1919年7月 - 1921年3月:『デンマーク』。コペンハーゲン一等全権大使
* 1921年(大正10年)11月19日 - 1927年(昭和2年)2月17日:『日本』。駐日フランス大使(1925年1月 - 1926年2月は休暇で帰国)
* 1927年3月 - 1933年4月:『アメリカ』。駐米フランス大使、ワシントンD.C.
* 1934年5月 - 1935年6月:『ベルギー』。駐ベルギー・フランス大使、ブリュッセル

1890年、パリのノートルダム寺院で聖体拝領に与った。彫刻家オーギュスト・ロダンの愛人であった姉に経済援助をしていたが、姉がロダンと別れて発狂して以降は上海勤務となり、姉に会う回数が激減したとされる。1898年、上海勤務の休暇に、約1ヶ月日本を観光した。
1900年、一時帰国し、アンドレ・ジッドと交際し始めた。聖職者を志し、ソレーム修道院(Solesmes Abbey)とリギュジェの聖マルティン修道院(Abbaye Saint-Martin de Ligugé)に籠もったが挫折した。福州へ帰任の途次、ベルギー人のロザリー・ヴェッチ夫人(Rosalie Vetch)を知り、1905年、彼女は一女をなした。この恋愛から、のちの戯曲『真昼に分かつ』、『繻子の靴』が生まれた。
一時帰国中の1906年、レーヌ・サント=マリー=ペラン(Reine Sainte-Marie-Perrin)と結婚した。5人の子をもうけた。
1917年、ブラジルへの赴任に、ダリウス・ミヨーを秘書として伴った。バレエ・リュスの旅興行を観て、トップ・ダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーと交渉を持ち、ミヨー作曲のバレエ『男と欲情』の台本を書いた。
1921年、駐日フランス大使となり、フランス領インドシナを経て、11月横浜に着き、1927年2月まで在日した。(次項参照)
1927年、イゼール県モレステル(Morestel)のブラング城(Château de Brangues)を求め、そことパリとに住まった。1928年、コロンビア大学名誉法学博士号を受けた。
1934年、バレリーナ、イダ・ルビンシュタインへの作品をミヨーから頼まれ、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』を書いた。1935年、アカデミー・フランセーズ会員選挙に敗れた。6月、外交官を退官した。
1936年、心臓を病んだ。1939年、ローマ教皇ピウス12世の即位式の、フランス政府代表となった。同年、ケンブリッジ大学の名誉博士号を受けた。幼馴染みのロマン・ロランとの交友が復活した。1940年、ドイツ占領軍に監視され、著書『接触と環境』が出版後ただちに、廃棄処分にされた。1941年、ナチスのユダヤ人迫害に抗議した。1942年、アカデミー・フランセーズからの入会勧誘を、その対独汚染のゆえに拒否した。ジャン=ルイ・バローと『繻子の靴』上演を議し、1943年、短縮した上演台本を書き、11月25日からコメディ・フランセーズで上演した。以降、バローに頼られた。
1944年、解放後、ド・ゴールと交わった。1946年、フランソワ・モーリアックの呼びかけとドゴールの後押しを受け、アカデミー・フランセーズ会員となった。
1947年、心臓発作を起こした。1948年、ド・ゴールの依頼により、国家評議会の会員となった。
1951年10月17日、レジョン・ドヌール大十字勲章を受けた。ロザリー・ヴェッチ夫人が没した。募る衰弱のなかで、執筆・旅行・演劇などの活動を続けた。
1955年2月23日、パリの自宅で没、86歳。その4日前まで「マリアへのお告げ」のコメディ・フランセーズ上演に関わった。2月28日、パリのノートルダム寺院で国葬が執り行われ、同年9月4日、ブラング城の一角に埋葬された。

その後も、著作・著作集の出版が続けられた。

物故直後の1955年7月、ジャン・ヴィラールのアヴィニョン演劇祭で、「都市」第2稿が初演された。遺作の上演は、なお、続いている。その中には、1987年のアヴィニョン演劇祭における、アントワーヌ・ヴィテーズ(Antoine Vitez)演出の、「繻子の靴」完全版の初演、という話題もあった。

毎年の夏、ブラング城で、ポール・クローデル協会による、故人を偲ぶ催しが開かれている。

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2011年2月4日

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カテゴリ
学問、研究
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