99年の愛 JAPANESE AMERICANS
日系アメリカ人の研究コミュニティです。
99年の愛
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1880年(明治13年)頃に、始めての日本人が団体で、ハワイとアメリカ本土に移民していったのを御存知でしょうか? この「一世」と呼ばれる世代から始まった日系アメリカ人と言われる人達は、それから130年を経た現在すっかりアメリカ社会に溶け込んでいます。海を渡った最初の世代の人達は、より良い暮らしへの夢を抱いて新天地へと向かって行きました。そこで出会った差別や過酷な労働条件にも負けず、農場や事業を起こし、やがて成功を収めるまでに至ったのです。しかし、日本とアメリカが敵国として戦った第二次世界大戦中、この日本からの移民に加え、アメリカで生まれた二世の子供達までもが、合衆国政府によって、僻地の収容所に留置されてしまったのです。
このウェブサイトでは、このように監禁され、資産も誇りも失った日系アメリカ人達が、大戦後にその生活を立て直すまでの歴史をたどります。TBS開局60周年特別企画ドラマも描いた、この日系アメリカ人の物語りの歴史的背景を顧みながら、彼らの辿った足跡を追ってみて下さい。
第一章: 船出
1885年から1924年ごろ、多くの日本人がアメリカへと向かいました。明治維新の土地や税制の改革で、特に地方ではますます貧困に拍車がかかり、若い男性が、職を求めてアメリカへと出て行ったのです。これ以前にも1860年後半に、ハワイやカリフォルニア州に渡った先駆者もいました。彼らは日系移民といわれ、後に続く世代と区別して「一世」と呼ばれるようになります。夢や期待を抱いてアメリカに渡りましたが、彼らを迎えたものは、孤独な独身者の労務者生活と、過酷な労働条件でした。彼らの雇われ労働者としての職場は、ハワイのさとうきび農園、アメリカ本土の缶詰工場、材木製材所、鉄道建設、農場といったところです。その斡旋を行ったのは、当初は日本政府、後には民間の斡旋会社でした。アメリカ西海岸へ、個人で移民した人達も多くいました。土地の労働組合は,このような日本人労働者達に強い反感を抱きます。農場経営者達もまた、勤勉な一世達の存在に、地位を奪われるのでないかと脅威を感じました。そこで労働組合や農場経営者たちは、日本人を始めアジア人が土地を購入したり、借用することができないようにするため、外国人土地法を制定させました。当時の日本政府は、このような一世に向けられた差別的な措置に対し、抗議を申し入れています。
マスコミや、政治家、移民排斥主義団体などは、「異人種の『黄禍』が、米国を侵略している。」と取り沙汰しました。しかし、実際には1910年の時点における日本からの移民数は、アメリカ太平洋側の人口のわずか1.5パーセントにしかすぎませんでした。一世たちは差別的な連邦法によって、アメリカの市民権を取得することも許されず、選挙権もなく、政治的な力もない状況でした。反日的な排斥同盟は、はさらに、日本からの移民を全面禁止することを政府に要請します。そして1908年、日米間で紳士協定が締結され、日本人労働者の米国への入国が禁止されることになりました。ただし、アメリカ在住の日本人の家族については、引き続き渡航が許可されました。
そこで、一世の男性達の中には、日本に一時帰国して結婚し、花嫁を連れてアメリカへと戻る者もいました。また、日本の女性の中には、一世男性の写真を見ただけで結婚を決め、写真でしか見たことのない夫と一緒になるために、アメリカへ渡って行く者もいました。彼女たちは「写真花嫁」と呼ばれ、何千人を越す女性達が、こうしてアメリカに渡ったといわれています。これら花嫁達の到着により、アメリカ生まれの新しい世代が訪れ、「二世」と呼ばれるようになります。日系アメリカ人の人口構成の変化は、新たな反日感情を招く結果ともなります。1924年、日本からの移民を禁止する移民法が制定され、排斥主義者達の主張が認められることとなったのです。
第二章: 緊迫
アメリカに渡った日系移民一世達は、白人の住居地区では歓迎されないとわかっていたので、一部地域に集まって生活するようになります。第二次世界大戦が始まるまでの何十年かの間に、各地で日本人のコミュニティーが形成されました。当時のアメリカ西海岸には、いくつもの日本街が現れています。一世達は日本人街で、店舗を持ち自営業を始めました。銭湯や日本語学校が開かれ、寺院や教会も建てられました。白人客向けのレストラン、クリーニング店やホテルなども開店しました。外国人土地法で土地の所有を規制されていましたが、その規制を回避しながら、農場、牧場、苗木屋などで成功を収める一世たちも多くいました。出身地域ごとに県人会が組織され、地域の祝日などに催し物を主催したり、経済的な援助も提供したりする余裕もうまれました。一世達はアメリカ社会から疎外され、偏見を持たれていましたが、経済的には安定し、お互い支えあって暮らしていたのです。アメリカで生まれた二世達は成長し、学業に励んでいました。二世達は一世の両親よりはアメリカ社会に溶け込めるのではないかという希望を持って暮らしていました。
しかし一世達の成功は、また周囲のアメリカ人達の反日感情と恐れを招くことになるのです。1930年代の日本による中国への侵略は、アメリカ国内で日本人に対する不信感を高め、両国間の緊張の高まりは、日本人の血を引く人達への反感を強めます。信用のおけない人種だという先入観が持たれていたうえに、危険な敵国人としてのイメージも報道されるようになりました。反日運動家は、アメリカ在住の日系人を、昭和天皇の「秘密部隊」だと責め立てました。
連邦政府は、「戦争勃発の際に危険性のある人物達」についての情報報告をまとめ、その中に日系移民一世と二世を含みました。1941年12月7日、真珠湾攻撃があり、アメリカ国民である二世も含め、すべての日本系の人々は猜疑と不信の目で見られるようになります。その数週間後には、連邦捜査局が2000人以上に及ぶ一世の指導者的存在を逮捕し、在住敵国人を抑留する「抑留所」に送りました。日系の地区では規制が布かれ、住居や事務所の家宅捜査、財産没収、夜間外出禁止令、旅行禁止、銀行口座凍結などが行われたのです。新聞には、西海岸に住む日系人達がスパイ行為や妨害行為を行っているという虚偽の政府報告が掲載され、恐怖に陥った一般市民達は、日系人全体を監禁するべきだと要求し始めるまでに至りました。
第三章: 強制立ち退き
1942年2月、フランク・ルーズベルト大統領は、「軍事活動に重要とみなされる地域から,いかなる人物でも追放できる権限」を軍に与えます。当時のアメリカ陸軍省と西海岸の政治家達からの圧力によるものです。指導者達は日系人のアメリカ国家に対する忠誠心の有無を疑問視し、「この地域からすべての日系人を排除することが軍事上必要である」と唱えました。大統領命令の告知が西海岸の州に張り出され、日本人の血を引く住民はすべて、日本国籍の一世だけでなく、アメリカ国籍を持つ二世も含め、移転所に出頭するように告げられました。準備のために与えられた期間は約一週間で、持っていくことが許されたのは手に持てるだけの所持品でした。財産の借り手がついたり、近所の人に財産等の世話を頼めた幸運な人もいましたが、多くの家族が、農場、自宅、経営している事業を始め、全ての財産を失うか、二束三文で売り払うことになったのです。どこに連れていかれるのか、どれくらいの期間になるのか等知らされることなく、強制的な「避難」が行われました。政府の権力者は、アメリカ市民を追放することにはいささか抵抗があったので、二世のことを「非外国人」という言い回しを使っていました。
二世の団体日系アメリカ市民連盟は、アメリカ国家に対する忠誠心をあらわすためこの強制立ち退きに従い、「避難」を支持するようにと呼びかけました。西海岸の北から南まで、多くの日系家族が自ら立ち退きに登録し、登録番号を付けられ、武装兵士の監視の下にバスや汽車による長い旅の末、「集合センター」へと送られました。「集合センター」は、会場となる空き地や競馬場に急ごしらえで建てられた仮施設で、有刺鉄線と監視塔に囲まれていました。12万人以上の日系の老若男女が、厳しい暑さと寒さの中、バラックのほったて小屋に粗末な食事、ついたてもないシャワーやトイレといった粗末な環境で暮らすことを余儀なくされたのです。それは、自由も誇りも奪われた生活でした。
何ヶ月か後、「集合センター」に留置されていた人々は、内陸の人里離れた常設強制収容所に移されました。収容所を運営するため、多くの人がかなりの低賃金で所内の仕事に就くことになりました。収容所での生活がましになるよう、住居宿舎は改良が加えられたり、スポーツや娯楽が企画されたりし、物質的には最低の生活を送ることができていました。しかしながら、罪もなく囚われの身のなっていることによる心理的打撃は免れません。連邦政府は、いずれは拘留されている日系人を解放しなければいけないことは理解していました。そこで、誰が安全かを見定めたうえで収容所外に開放することとし、1943年に忠誠登録を行いました。忠誠登録は日系人の間に怒りと誤解を招き、将来への不安もあり、多くの家庭内で口論を引き起こし、家族を引き離す結果になってしまったのです。
第四章: 不和
第二次世界大戦中の強制収容所への監禁政策中日系人達は、それぞれ選択を強いられました。 政府の政策に抗議する人達は罰せられることになります。1942年の春に収容所が開設された直後から、アメリカ政府は、アメリカに忠誠心があるとされた日系人を、収容所から解放して軍事隔離地区から離れた地域に落ち着かせるという施策を行っていました。また、忠誠心があるとされた日系人は、一時的に収容所から出て、戦争に取られた農園労働者の代わりに働く許可を得ることも可能でした。人道主義者や宗教団体が後ろ盾となり、二世の大学生を収容所から出して学校に戻すといったこともありました。国家の安全を脅かす人物ではないことを証明し、地域住民の反対がない地区で仕事と住居を見つけられた場合は、収容所を去ることもできました。この退出政策は、若くてアメリカ社会になじんだ二世にとって有利であったために、収容所から出て行く者もあり、年老いた一世は収容所に残される結果を招きます。
収容所から出るためのもうひとつの手段は、アメリカ軍への入隊でした。第442連隊戦闘団は日系の兵士だけで編成され、イタリアとフランスでの激しい戦闘で活躍し、後に日系アメリカ人の一般的なイメージの向上に役立つことになります。二世と帰米兵士は、太平洋地域の陸軍情報局にも従事していました。兵士達の中には、自分達の公民権の回復を訴え、徴兵忌避の罪で連邦刑務所に投獄された者も300人以上いました。
1943年に行われた忠誠登録は、日系コミュニティーに内部亀裂をもたらし、それまでの人々の生活を大きく変えました。その中に含まれていた「アメリカ軍に参加するか」と「日本の天皇への忠誠を破棄するか」という二つの問いに「ノー」・「ノー」と答えた人たちは、アメリカ政府に不忠誠とみなされました。そして、監視度の高い隔離センターであるカリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所に移される結果となったのです。1944年の冬から1945年にかけ、この収容所では5500人以上の二世がアメリカ市民権を破棄し、戦争で大きな打撃をこうむった日本へと国外追放される可能性に直面することになりました。日本に帰還を望む一世の親への思いや、生まれた国であるアメリカに拒絶された怒りに影響された決断でした。大部分の人たちは戦後、アメリカ市民権を再取得しています。
第五章: 復帰
第二次世界大戦中の、日本の血を受け継いだ人達の集団拘留は、日系アメリカ人の地域社会を劇的に変えました。強い横のつながりを持っていた日本人街や農場地域は崩壊し、一世が汗を流して築いてきたものは壊れ去り、二世の世代が日系社会の指導的な役割を担うようになりました。1945年に日本との戦争が終わり、収容所閉鎖後、収容されていた多くの人達はアメリカ西海岸地域へ戻って来ました。そしてそこで日系家族は、自分たちの財産が破損・紛失している現状を目の当たりにするのです。
また、反日感情の強い西海岸地区を逃れ、中西部や東部で出直しを図ろうとする日系人も多くいました。アメリカ全体で職も住居も不足している時期です。当時持たれていた反日感情のため、収容所帰りの人達の職探しや家探しは厳しいものでした。ハリー トルーマン大統領はホワイトハウスの演説で、日系人兵士で組織された第442連隊戦闘団に対し「あなた達は敵国と戦っただけではなく、偏見とも戦って勝利を得た」と讃えたにもかかわらず、その帰還兵でさえ、人種差別と拒絶に迎えられました。
一世が年老い、二世がキャリアと家族を築くうちに、痛ましい強制収容所の記憶は、かたすみに追いやられるようになります。戦後、アメリカ主義が強く打ち出されるに従って、二世は自分達の日本の部分を表に出すこともなくなりました。三世の子供達に、収容所の記憶を語ることもありませんでした。1960年代後半になって、三世の活動家と二世の指導者達が、裁判と立法により、連邦政府に対し賠償金の要求を始めます。1988年にロナルド レーガン大統領が、戦時中の不正な拘留の被害を受けた存命の被害者全員に、それぞれ2万ドルの賠償金の支払いと、大統領公式謝罪を認める法律に署名するに至り、この賠償金請求は成功裏に終わりました。
現代の日本人の血を引くアメリカ人たちは、その伝統に誇りを持って活躍しています。日米間の強い絆から、新世代の日本人移民達も日系アメリカ人の歴史に新たなページを加えています。アメリカ政府が、再びある人種の拘束を行うようなことをするとは思えません。しかし、国際化が進展し、国家の安全保障を真剣に考えないといけない時代に、第二次世界大戦の収容所の悲劇をかんがみることは価値のあることではないでしょうか。
困ったときには