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大田蜀山人(南畝)

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詳細 2022年8月26日 10:59更新

狂歌師としてだけではなくグルメ本作者としても江戸を風靡した蜀山人!
38歳にて吉原の太夫をも身請けした粋人、蜀山人!
国学界の京極夏彦、上田秋成をも導いた蜀山人!
魯山人の語源となったとも一部では噂されている蜀山人!
そんな蜀山人の世界を語ろうではあ〜りませんか!


以下wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D


大田 南畝(おおた なんぼ、寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師。

漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループを、山手連(四方側)と称した。

名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。


生涯

江戸の牛込生まれ。

1767年(明和4年)、19歳で著した狂詩集『寝惚先生文集』が評判になった。後世、田沼時代と呼ばれる時期に狂詩、狂歌、洒落本などで文才を発揮した。

1783年(天明3年)より、数点の黄表紙を発表するが当たり作はなかったという。

1786年(天明6年)、吉原の松葉屋の遊女・三保崎を身請けして妾とした。

1787年(天明7年)、寛政の改革が始まるが、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず[1]」の作者と目されたことや、田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられ[2]、戯作者の山東京伝らが弾圧されるのを見たこともあって、狂歌は止める。これ以降、職務に励むかたわら、随筆などを執筆した。

1801年(寛政13年)、大坂銅座に赴任し、大坂在住時から「蜀山人」の号を使い始めた。号の由来は、銅の異名を「蜀山居士」と言ったことから。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流する。

1823年(文政6年)、死去。辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と伝わる。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。
公職

* 1794年(寛政6年)、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格する。
* 1799年(寛政11年)、孝行奇特者取調御用を命ぜられる。
* 1800年(寛政12年)、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる。江戸城内の竹橋の倉庫に保管されていた勘定所の書類を整理する役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に対して、南畝は「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
* 1801年(寛政13年)、大坂銅座に赴任(旅の日記『改元紀行』を著している)。
* 1804年(文化元年)、長崎奉行所へ赴任する。
* 1808年(文化5年)、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く。


蜀山人の墓紹介コラム
http://www.ishicoro.com/uresi/no285.htm

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2010年10月21日

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カテゴリ
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