「トヨタ中興の祖」または「トヨタの大番頭」と呼ばれた、トヨタ自動車の故・石田退三元社長のコミュニティです。
「経営の神様」といわれた松下電器産業(現・パナソニック)の松下幸之助創業者が、終生、退三を尊敬し「石田はんに指導を受けなんだら、今日の松下はここまで成長できなんだ。私の経営の師匠はたった一人、石田退三さんに尽きる」と公言していました。
また、自社の役員さえも石田退三さんのところへ勉強に行かせていたそうです。
以下、Wikipediaからの引用です。
石田 退三(いしだ たいぞう、旧姓澤田、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、元豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、元トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタ中興の祖」と呼ばれる。
来歴・人物
現在の愛知県知多郡小鈴谷村(現常滑市)生まれ。父親を早くになくし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。最初の勤め先である西洋家具屋で商才を身につける。結婚を機に退職(養子縁組をしてこのときに姓を石田に改める。夫人を紹介したのは児玉である)上京して呉服問屋に勤めるも退職。
児玉の紹介で「服部商店」(現興和)に入社し、上海駐在中に豊田佐吉と出会う。後に豊田紡織(現トヨタ紡織)に入社。紡織時代は利三郎の下で働き新工場の建設の用地買収を任されたときに突然中止となったという出来事が起こる。これは豊田自動織機製作所自動車部の新工場建設のために買収資金が回せなくなったというのが理由である。その工場は挙母工場(現在のトヨタ自動車の本社工場)の建設に当てられ、石田自身しばらくは自動車製造に対して(自動車部を作った豊田喜一郎に対しても)反対し続けることとなる。
豊田自動織機製作所自動車部発足後、豊田紡織の監査役(すぐに取締役)在任中、自動車部のピストンリングを探して欲しいと頼まれたときに本田宗一郎と出会い、ピストンリング製作の下請けを依頼。本田の会社は大きくなるが後にこの会社東海精機は豊田自動織機製作所に売却する。その際石田自身も社長を勤めていた。本田は本田技研工業を設立。石田の助言で藤沢武夫と出会う。
戦後の混乱に豊田自動織機製作所の人員整理や度重なるGHQへの申請で輸出が許可され、戦後の経営危機の中豊田自動織機だけはすぐに経営が安定した。
1948年に豊田自動織機製作所の社長となったが、トヨタの労働争議が激化すると利三郎より社長就任を要請される(喜一郎が労組との約束を果たせずトヨタがただ一度行った人員整理の責任を取って辞職するという形となったためとされる)。トヨタ自動車工業社長に就任すると朝鮮戦争が起こり日産自動車といすゞ自動車との入札合戦に勝利し、急速に業績が回復する。
1961年8月に会長、1971年1月に相談役に就任。 1979年9月18日死去。享年90。旧勲一等瑞宝章(昭和45年)
性格
石田は無駄をとことん嫌い、無駄なお金を一切使わなかったといわれる。これはトヨタの危機の際に累積赤字が蓄積し銀行に融資を断られたという苦い思い出があり、「自分の城は自分で守れ」と、内部留保をとことん増やして自前で必要な機械などを買うというやり方を行っていた。この方針は現在でも受け継がれ、トヨタは「トヨタ銀行」と呼ばれるほど内部留保を多く持っている。なおこの経営危機の際、当時の融資銀行だった東海銀行、三井銀行が支援した反面、住友銀行は真っ先に融資回収に走ったため、終生、住銀との取引を許さなかった。
社長在任中は「けち」に徹し、紙も裏まで使い、鉛筆も短くなるまでとことん使ったという。こうした節約でトヨタは無借金経営となり、現在まで続く優良な財務体質の基礎となった。
「俺は佐吉翁から薫陶を受けた」が口癖で自慢でもあったという。
困ったときには