曽我派(蛇足<軒>)
室町時代に起こった画派の一。代々蛇足の号を用いた。
初代は曽我墨渓(別号:采誉)で、一般には蛇足と称される。越前にて、朝倉氏の家臣の家に、1410年ごろには生まれていたであろうと推測されている。(源豊宗)
文明5(1473)年、伊勢にて没。
周文に画を学び、一休に参禅。墨渓筆になるそれぞれの画像が伝えられている。また、号・墨渓は一休より与えられた。
一休没後十年の延徳3(1491)年に建立の大徳寺真珠庵の障壁画は墨渓の息・宗丈の作。宗丈は「赤蠅」の落款を使用。蛇足号を用いたかは不明ながら、真珠庵の過去帳中、「夫泉宗丈上坐 十一月」とあり、その裏書に「宗丈 曽我式部 号蛇足」とあることから、彼もまた蛇足号を使用していたことがうかがわれる。
三代は宗丈の息・紹仙。号蛇足。その後、宗誉、紹祥と続いたことは、『本朝画史』(狩野山雪の遺稿を、その子永納が加筆し、元禄4<1691>年版行)にある。
宗誉は紹仙の子。宗誉と紹祥は、親子(『本朝画史』)かもしくは「兄弟的関係」(源)ではなかったかとも推測されている。
紹祥は未詳の絵師だが、『丹青若木集』では、長谷川等伯がはじめに師事した人物とされている。また、直庵の曽我派はこの紹祥に発するとみられている。(源)
直庵は生没年不詳。堺に居住したとされている(『丹青若木集』、『画工便覧』)。おもな活躍期は16世紀後期〜17世紀初期であり、これに次ぐ二直菴もまた生没年および経歴は不詳。その制作期は17世紀前半〜中期すぎであったと推測される(稲畑ルミ子)
直庵、二直菴共に鷹図を得意とした。
曽我派初代から二代にわたる頃に、かかわりがあり絵を描いた人物に、一休、墨斎、文成・文清(同一人物か)がいる。
また、二代から三代の門人かと考えられている人物に亮仙がいる。
また、直庵、二直菴の周辺的な人物に田中直翁。玉翁、玉菴(『弁玉集』、『画乗要略』)。『扶桑名工画譜』は三直庵の存在を伝えている。
江戸中期に蛇足軒を号し、曽我派を名乗った絵師に曽我蕭白がある。
そして、いずれもその画風には、「濃墨を用ひ、麤筆草書の如く、勢い甚だ豪放のみ」(『本朝画史』)というべき特徴がみられる。
参考:『日本美術絵画全集3 曽我蛇足』集英社
『特別展 曽我直庵・二直菴の絵画』奈良県立美術館