パウリノ・アルカンタラ・リエストラ(Paulino Alcántara Riestrá、1896年11 月7日 - 1964年2 月13日)は、フィリピン出身のスペイン系フィリピン人サッカー選手。ヨーロッパで成功した最初のアジア人選手とされる。
キャリアの大半をFCバルセロナで過ごし、357試合に出場してクラブ史上最多の357ゴールを挙げた。
1927 年に31歳で引退した後は医者に転身した。1931年から1934 年までバルセロナのクラブディレクター、1951年にスペイン代表監督を務めた。1964年にバルセロナで没した。
1896 年、フィリピンで生まれる。フィリピン駐留スペイン軍兵士の父と、先住民族イロンゴ人の母との間に生まれたメスティーソであった。スペインのバルセロナで育ち、FCガレノでプレイした後、ジョアン・ガンペールによって見出されFCバルセロナと契約した。
トップデビューは15歳の時、1912年2 月25日のカタルーニャ選手権のカタルSC戦。この試合でアルカンタラはハットトリックを決めている。 1913年はコパ・デル・レイとカタルーニャ選手権の2冠、1916年はカタルーニャ選手権優勝に貢献した。
1916 年にアルカンタラの両親は息子を連れて、フィリピンに帰国することを決めた。フィリピンでは医学を学びつつ、マニラのボヘミアンズというサッカークラブでプレイしていた。 アルカンタラの退団以降タイトルから離れていたFCバルセロナは彼の復帰を懇願しており、本人もこれに乗り気だったが、彼の両親がこれを阻んだ。1917 年にマラリアを患ったアルカンタラは、スペインへの帰国を両親が認めてくれるまで、処方された薬を飲むことを頑なに拒んだという。
1918 年にFCバルセロナに戻った後、元チームメイトでもある監督ジャック・グリーンウェルは当初アルカンタラをディフェンダーとして起用を試みたが、ファンからの抗議によってFWに戻した。 1920年にはクラブはコパ・デル・レイとカタルーニャ選手権のダブルを達成した。コパ・デル・レイ決勝ではアスレティック・ビルバオに対してゴールを上げ、2-0で勝利した。この時期がクラブの最初の黄金期と目されている。 1922年コパ・デル・レイ決勝ではレアル・ウニオンを5-1で破り、アルカンタラ自身も2ゴールを挙げた。1926年の決勝では3-2で勝利し、この時もゴールを挙げている。
代表での活躍 [編集]
1915 年に初めてカタルーニャXIとしてプレイ。1924年までに少なくとも6試合に出場して、4ゴールを挙げた。しかしこの時代の記録は必ずしも正確ではないため、より多くの試合に出場したりゴールを挙げた可能性もある。
フィリピン帰国中の1917年にはフィリピン代表に選ばれ、東京で開かれた極東選手権に出場し、日本戦での15-2の勝利に貢献した。同大会では卓球競技のフィリピン代表としても出場した。
1920 年にサモラ、サミティエル、サスマガらとともにスペインのオリンピック代表に選ばれたが、医学試験の勉強のためにこれを辞退。 1921年10月17日、25歳の時にベルギー代表との試合でスペイン代表デビューを果たし、2ゴールを挙げて2-0で勝利した。その後、1921年から1923年までに5試合に出場して6ゴールを挙げている。