富山市街の唯一と言っていい観光施設、「富山松川遊覧船」、「松川茶屋」のコミュニティです。観光で来て気に入った人、地元で松川の桜風景が好きな人、写真好きの人、宴会船の常連、茶屋の常連、茶屋で働いている人など、茶屋好きの人ならどんな人でも参加OK!
茶屋の魅力や、裏話について語りあいましょう。
松川遊覧船HP↓
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以下HPより
〜松川遊覧船って?〜
富山観光遊覧船(株)が運航する松川遊覧船は、昭和63(1988)年4月より、富山市中心部・富山城址公園横を流れる松川(旧神通川の名残り)で運航しています。江戸初期から明治後期にかけて、最大の通商路として賑わった神通川の歴史を偲びながら、7つの橋をめぐる遊覧を楽しむことができます。松川沿いにはソメイヨシノが460本植えられおり、「日本さくら名所100選」にも選ばれ、多くの方がお花見遊覧船を楽しみます。
松川べりは、2002年にノーベル化学賞を受賞された田中耕一さんが、かつての神通川を埋め立てた場所にある芝園中学校、中部高校への行き帰りに歩かれたゆかりの場所でもあります(国道41号線は、沿線から4人のノーベル賞受賞者を輩出していることから「ノーベル街道」と呼ばれています)。
戦国時代、織田信長に派遣された佐々成政が上杉勢らを追い出し、越中の領主となり富山城に入城しましたが、のちに豊臣秀吉に刃向かったため、10万の大軍に包囲され、降伏しました。その頃、浜松の徳川家康に助勢を求め、雪の立山連峰を踏破したという伝説が残っています。
江戸時代、旧神通川に64艘の舟をつないだ日本最大の「舟橋」が架けられました。舟橋のたもとの茶店の名物は「鮎のすし」で、のちに「鱒のすし」となり、現在、富山の名産となっています。松川沿いの七軒町には、鱒のすしのお店が並んでいます。
明治時代、滝廉太郎が、当時は今の約6倍の広さがあった旧富山城内の小学校(現在の富山税務署のあたり)に約2年間通っていました。「荒城の月」を作曲した時、あるいは、富山城址をイメージしたかもしれませんね。