国学者、平田篤胤のコミュニティです。私は篤胤の専門家ではありませんが、宣長とならぶ国学・日本思想史における巨星であり、スピリチュアリズムの先駆者とも思います。
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平田 篤胤(ひらた あつたね)は、江戸時代後期の国学者・神道家。幼名正吉。通称半兵衛。寛政2年元服してからは胤行と名乗り、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては、玄琢を使っている。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
秋田藩士の子として生まれ、成人してから備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は水戸学同様尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなった。その思想は後の神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えた。又篤胤は机上の文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤は独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学と自ら称していたようで、西洋医学のみならずラテン語やキリスト教の教義まで吸収していたようである。関心は広く多岐に渡り、暦学・易学・軍学などにも精通していた。一方知識の広さのために不自然な融合を示し、宣長学派の実証主義から逸脱し複雑難解なものとなっている。平田神道と呼称される所以である。
篤胤の学説は学者や有識者にのみ向けられたのではなく、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、やがて国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に信濃の文学者島崎藤村はその作品『夜明け前』の中で平田学派について詳細に述べている。
復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。
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