このコミュニティは『トンコ節』や『ヤットン節』などのヒット曲で知られる歌手・久保幸江さんのコミュニティです。
↓以下、Wikipediaからの加筆・転載です。
1924年(大正13年)、日本統治下の台湾・屏東市に生まれる。
1942年(昭和17年)屏東高等女学校を卒業後、家族とともにシンガポールに移る。当時のシンガポールは日本占領下にあり昭南島と称していたが、家族はそこで日本軍相手の料亭を開いていた。久保はこの店で好きな流行歌を歌い、また軍の慰問にも赴き、歌を歌っていたという。
1946年、日本に引き上げた後、翌1947年、日本コロムビア社の新人歌手募集の新聞広告を見て応募、1500人の応募者の中から見事合格した。
1948年「千鳥なぜ啼く」でデビューしたが不発に終わる。民謡を歌謡曲風にアレンジした2曲目の「おこさ節」も市井の注意を引かないまま終わったが、民謡もうまくこなせる新人として社内で注目を集めた。
ところで、このころ古賀政男は「炭坑節」に興味を持っていた。古賀はこれをさらに都会的な宴会ソングに仕立て上げ、1949年、「トンコ節」として久保と楠木繁夫のデュエットとして発売させた。当初はさっぱり売れなかったが、都内、地方を問わずあらゆる営業先のステージで幾度となく一人で歌いまくったため、じわじわと売上が伸び、翌1950年、新人歌手加藤雅夫と共に吹き込んだ新しい「トンコ節」が彼女の運命を決定づけるほどの大ヒット曲となった。それは松竹をして映画「初恋トンコ娘」(監督・斎藤寅次郎。柳家金語楼、川田晴久他、久保自身も出演。1951年4月20日封切)を製作せしめるほどであった。当時の人気投票では、美空ひばりを抑え一位になったこともあった。
以後「ヤットン節」、「パチンコ人生」、コミックソング「旅は楽しいシュッポッポ」などヒット曲を放ったが、1955年、日本舞踊に転向を理由にコロムビアを退職した。
1969年、渡辺はま子の勧めで歌手活動を再開。1973年、甲状腺手術で声帯を一本切除する危機に見舞われるが、懸命なリハビリと治療の末に復帰。その後は神奈川県内で歌謡教室を開きながら、テレビの懐メロ番組などで活躍を続けてた。近年は体調を崩し療養中である。
☆代表曲☆
『トンコ節』(作詞:西条八十/作曲:古賀政男/1951年)
『ヤットン節』(作詞:不詳/補作詞:野村俊夫/作曲:不詳/補作曲:服部レイモンド/1952年)
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