幕末の志士たちを物心両面から支援した豪商白石正一郎。明治維新の隠れた功労者とも言われ、彼の存在なくしては、明治維新は果たされなかったかも知れない。長州藩士はもとより、坂本龍馬、西郷隆盛といった諸藩の志士400人以上と交流し、彼らを支え続けたその功績は実に大きい。
文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱いほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であったが、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。月照上人、平野国臣、真木和泉らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬も一時、白石邸に身を寄せていた。
文久3年(1863年)の馬関攘夷(ばかんじょうい)戦に参加し、同年に高杉晋作が白石宅で奇兵隊を結成すると、弟の廉作(れんさく)とともに入隊し、私財を投じて援助した。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、7月には士分に取り立てられた。
明治維新後は赤間神宮の二代宮司となり、専ら風月を楽しみながら老養の日々を送った。明治13年(1880年)、69歳で死去。
西郷隆盛をして「温和で清廉、実直な人物である」と言わしめた正一郎は、新時代を築き上げる人材を経済面で支え続けた先見性と人間性に長けたスポンサーであった。
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