私たちは、たとえば仏陀の覚醒が、自分自身の可能性として(どんな小さなものに思えても)認識できるなら、「宗教」という意匠ぬきで、仏性に直参する霊的挑戦を自らのものとして引き受けることができるでしょう。
いかなる結果が待っていようとそのような霊的挑戦は貴重なものでしょう。同時にその挑戦に見合う真摯な態度なしに、容易なる成就を期待することなどできないでしょう。それが失敗ですめばまだましかもしれません。
意識的だろうが、無意識だろうが、偽物の成就を売る無数の詐欺師(トリックスター)がいるのだから・・・。しかも偽物と本物をどう見分けるのか?一休は仏陀のことを「いたずら者」と言っている。仏陀が詐欺師なら大笑いだけどさ。わかんねえぞ・・・。覚醒もしていない私たちにどうしてそれが判るのか?疑いだせばきりがないでしょう・・・覚醒なんてあるのか?仏性なんてあるのか?しかしとことん疑う以外なにかあるのかしら?根源的に疑う能力と勇気がないなら探求も挑戦も陳腐な通過儀礼だろう。
いずれにしろ、霊的挑戦を真摯に引き受け、それに対して提案できたり、検討したい人は歓迎です。覚者もそうでない人もどうぞ。基本的には実践を重視したいですが、そうなるかどうか・・・。このコミュニティは純粋な知的遊戯であり、同時にその超越に開かれている、とでもしますか。
前もって言えばたぶんほとんどの霊的挑戦は失敗するでしょう。証明はしないけど・・・。しかしだからこそそれは挑戦に値する。
わたし自身の探求の展開は
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においてなされています。興味ある方はどうぞ。