平成21年9月12日放映の本番組を御覧になった方及び御関心おありの方のコミュ。
素敵な番組です。是非DVD化を実現して、後世に広く視聴してもらいたいです!
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サイト趣旨等御確認下さり、賛同下さるならば幸いです。
【番組概要】
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横浜港を埋め尽くした数万人もの人、人、人……今から56年前、大桟橋は歓喜の渦に巻き込まれていた。
それは、戦後8年もの間、異国の地で囚われていた108名の元日本兵と、その帰還を待ち受ける家族や友人達だった。
祖国から見放された男たちを救い出す原動力となったのは、政治家でも外交官でもない、一人の歌手だった。
渡辺はま子 ─
「蘇州夜曲」「支那の夜」など、今に残る大ヒット曲を数多く持ち第一回紅白歌合戦のトリも務めた昭和の国民的大スターである。
奇跡と言われたその救出劇を生み出したのは男たちから託された一曲の『歌』だった。
昭和20年8月15日、アジア各地に多くの被害をもたらし太平洋戦争・第二次世界大戦は、終戦を迎えた。
中でも、日本軍と連合軍の激戦の地となったフィリピンの被害は甚大で、当時のフィリピンと日本は、賠償責任問題を巡って緊張関係にあった。
80億ドル─ 日本円で約3兆円という、当時の国家予算の4分の1にも及ぶ賠償金額を請求するフィリピン政府。
その賠償交渉の切り札にされたのが、一方的とも言える戦争犯罪事件裁判で死刑囚となり、モンテンルパの刑務所に収容された108人の声なき日本人だった。
いつの時代も、国同士の争いの犠牲になるのは、力も名も無い、普通の人々なのだ。
「戦争犯罪人」の烙印を押され死刑の恐怖に、ただただ怯える元日本兵たち。
異国の地で戦った彼らにとって、終戦は、更なる地獄の始まりだった。
彼らの戦争は、まだ終わっていなかったのだ。
そんな彼らを助けるため、国交もない、反日感情強いフィリピンに向かうはま子。
それはまさに命を賭けた戦いだった。
モンテンルパの刑務所で、日本人戦犯の前で歌うはま子の肉声が残されている。
「本当に……、一生懸命来ました…」
涙にむせびながらも一心に話し、歌い続けるその歌声は、世論を動かし、やがて外交をも動かしていく。
また、出世をかなぐり捨て日本人戦犯救出に心血を注いだ、若き復員局の職員・植木信吉。
そして、獄中で救出活動に挑んだ僧侶・加賀尾秀忍。
政治的な力も、潤沢な資金もない3人が地道に始めたこの運動が、やがて、フィリピンと日本の外交に大きな転機をもたらすことになってゆく。
現在87歳になった植木信吉氏は、当時を振り返りこう語る。
「当時、復興に沸く日本では、モンテンルパの皆さんを見て見ぬ振りしていた。
彼らだけがあの戦争の責任を取らされるのは、絶対におかしい。
家族と離れ離れになり、未だに苦しんでいる皆さんのために出来るだけのことをしたい、そう思ったのです」
その奇跡の救出劇の内幕を渡辺はま子さんや、植木さん、加賀尾さんの日記や手記を元に忠実にドラマ化。
当時の貴重な録音テープや映像、そして実際にモンテンルパに捕らえられていた
元日本兵やその家族の証言を織り交ぜながら、戦争の悲劇、そして奇跡の救出劇の真実に迫ります。
昭和26年(1951年)1月19日深夜─元日本兵の一斉処刑が秘密裏に行われた。
家族はおろか、日本政府にも知らされることなく行われた極秘死刑。
異国の地の死刑台に虚しく響いた祖国に見捨てられた男たちの無念の叫び──
それは、焼け野原からの復興に沸く日本には届かなかった。
戦前・戦中と数々のヒット曲を放つ国民的人気歌手・渡辺はま子(薬師丸ひろ子)がトリをつとめた「第一回の紅白歌合戦」が開催されたのも、この頃のことだった。
日中戦争からはじまり、太平洋戦争、そして全世界へと拡大した第二次世界大戦。
10年近くにも及んだ戦いについに敗れ、絶望の焦土と化した日本は、数年の歳月を経て、戦中・終戦直後の飢餓から少しずつ抜け出そうとしていた。あの忌まわしい戦争の記憶を遠い過去に押しやり、人々は生きる希望をやっと取り戻しはじめていたのだ。
しかし渡辺はま子は、華やぎを取り戻した芸能界に身を置きつつも、心の奥底に暗い影を落としていた戦争の傷跡から目を逸らすことが出来ずにいた。
子供の頃からの夢が叶い、歌手となったはま子を待ち受けていたのは戦争だった。
従軍歌手として歌を武器にして共に闘ったはま子は、万歳三唱で戦地へと送り出した兵士たちを、忘れることができなかった。
その後悔の念から、はま子は戦後、歌手活動も顧みず、傷病兵収容所や巣鴨刑務所に慰問に訪れていた。
そんなある日、はま子は慰問先でフィリピンの刑務所で行われた元日本兵の一斉処刑を知らされる。わずか10センチほどの小さな記事でしか世間に伝えられなかった14人の非業の死。その真実を知るために、はま子は復員局のフィリピン担当の元に足を運んだ。
終戦後7年が経ち、すでに復員局はかなり規模を縮小していた。そんな中、たった一人のフィリピン担当・植木信吉(成宮寛貴)は、はま子に驚くべき事実を告げる。
フィリピンのモンテンルパにある刑務所には、戦犯として死刑囚となった元日本兵が108人も投獄されている。しかも彼らの多くが、証人として名乗り出たフィリピン人に「コイツが犯人だ」と指さされ、詳しく事実関係を調べることも無く有罪、死刑となったというのだ。
さらには、そんな過酷な状況にあっても、日本政府が手を差し伸べることはなく、遠い南の異国の地で、彼らは孤独な戦いを強いられているという。
しかし、そんな彼らについてほとんどが知られておらず、手がかりは植木がたった一人で調べ上げた囚人たちの名簿「命のリスト」だけだった。
祖国のために戦い、その末に祖国に見捨てられた男たち──。
たった10センチほどの新聞記事でしか取り上げられなかった声無き14人の死。
せめて、弔いの言葉だけでもかけて差し上げたい……はま子は、モンテンルパへの刑務所宛に筆をとった。
はま子の手紙に応えたのは、モンテンルパの刑務所で、教誨師を務める加賀尾秀忍(小日向文世)。加賀尾もまた、3年前の昭和24年、モンテンルパの囚人たちの悲惨な状況を知り、命がけで反日意識強いフィリピンに渡ったのだった。
加賀尾を迎えたのは、生気ない、すさんだ眼差しの囚人達……
彼らは、万歳三唱で日本から送り出されたにも関わらず、激戦の中、ライフラインをたたれ、敗走し、さらには、戦後、祖国日本から見放された人々だったのだ。
しかも、加賀尾が来る前に行なわれた処刑で亡くなった3人の遺骨は、淋しい死刑台の前に造作なく埋められていた。
死んでも尚、帰れない──囚人達が生きる望みも失い、孤独の中、諦めていたのは当然のことだった。
彼らは、戦争犯罪人という名のもとに、日本人に対するフィリピン人の恨みを全て負わされている。彼らだけが、あの戦争の責任を取らされるのはおかしい。同じ時代に生きた自分が見てみぬふりは出来ない。
そう思った加賀尾は、囚人たちと同じように独房で生活すると決意する。
それは、見捨てられたと感じ、絶望していた囚人たちに、一筋の希望の光をもたらしてくれた。
囚人たちと共に暮らすうちに加賀尾は、囚人たちのもう一つの姿を知る。
日本の家族に思いを馳せる父親としての姿……前川治助(萩原聖人)は、独房の窓から見上げる空に3人の子供と妻・邦子(中嶋朋子)を思った。
妻・初代(田畑智子)と子供たちに、すぐ帰ってくると言い残してきた衛藤利武(伊嵜充則)は、一枚の家族写真だけを心の支えに生きていた。
しかし、その日は突然にやってきた。
昭和26年1月19日 夜6時──
14人の死刑囚たちの予告なき一斉処刑が始まったのだ。
死刑台に響く、家族の名を呼ぶ衛藤の最期の声。
加賀尾はどうする事も出来ず、ただ祈り続けることしか出来なかった。
14人の壮絶な最期の真実を知ったはま子は、亡くなった彼らのために何かできないかと模索し始めるが………。
<キャスト>
薬師丸ひろ子
成宮寛貴
萩原聖人
中嶋朋子
田畑智子
伊嵜充則
阿南健治
金井勇太
半海一晃
勝村政信
小日向文世
制作著作 フジテレビ
【渡辺はま子】
第一回紅白歌合戦のトリ明治43年(1910年)10月27日生まれの渡辺はま子は、名前の通り横浜育ちの「ハマっ子」。少女時代から歌うことが大好きで、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)で声楽を学びました。昭和8年(1933年)にデビュー。
その美貌と本格的な歌唱力で、戦中・戦後といくつものヒット曲を出し、国民的歌手に。
今では、年の瀬の風物詩となったNHK「紅白歌合戦」は、戦後、昭和26年(1951年)にラジオ番組として開催されましたが、その時のトリを務めたのもはま子でした。「支那の夜」「蘇州夜曲」渡辺はま子のヒット曲といえば……「支那の夜」や「蘇州夜曲」といった戦中の楽曲が有名。中でも「蘇州夜曲」は、最近でも多くのアーティストがカバーしているので、若いかたでも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。しかし、この「蘇州夜曲」に、当時の時代背景が色濃く反映されていることは、あまり知られていないかもしれません。
デビューから3年後、「忘れちゃいやヨ」が注目されヒットの兆しをみせた渡辺はま子でしたが、戦争へと突き進み始めていた日本政府は、この歌を軟弱な歌として発禁処分にしてしまいました。その後、芸能人の活動も厳しく統制され、はま子の歌は、日中戦争で盛り上がる「大陸ブーム」の影響を受けたものへと変わっていきました。「蘇州夜曲」「支那の夜」は、日本国民を中国(大陸)へと駆り立てる日本政府の戦略を反映した楽曲だったのです。 「あゝモンテンルパの夜は更けて」戦時中は、従軍歌手として戦地へ赴き、多くの兵士の前で歌った渡辺はま子。子供の頃から大好きだった歌を武器にして戦争で戦ってしまった。終戦時、はま子は、歌で多くの兵士達を鼓舞し、戦争で死なせたことに責任を感じ苦しみました。
そんなはま子が、戦争の悲劇が生んだ「戦犯」──モンテンルパの元日本兵の解放を求めて歌ったのが「あゝモンテンルパの夜は更けて」。大ヒットとなったこの曲は、全くの素人であるモンテンルパの元日本兵が刑務所で作ったものでした。
画像は「渡辺はま子」女史。
後世に伝えるべき名作ながら、DVD化なされず埋もれてしまっている作品にも宜しければ御愛顧を賜り、下記作品もまたDVD化実現されますよう謹んで御願い申し上げます。
遙かなる約束〜50年の時を越えた運命の愛〜二夜連続・奇跡の夫婦愛スペシャル http://
☆原案 : 「クラウディア 奇蹟の愛」(村尾靖子著・海拓舎刊)
<ストーリー>
1940年、蜂谷彌三郎(阿部寛)は軍人だったが肺を患い、戦地より帰還し故郷の陸軍病院に入院していた。そんな中、当時看護婦をしていた久子(黒木瞳)と出会う。急速にひかれ合った二人はほどなく結婚をし、やがて彌三郎の仕事の関係で朝鮮に渡ることになった二人は、そこで長女・久美子を授かる。ところが1945年8月15日、日本が敗戦。二人は平壌郊外に避難していたが、ある晩、突然そこにソ連兵が訪れ、彌三郎は身に覚えのないスパイ容疑で強制連行された。「必ず帰ってくるから」それが久子が聞いた彌三郎の最後の言葉だった。久子は久美子を連れ、命からがら日本へと戻る。しかし、情報が不十分なこの時代、お互いの消息はその後半世紀もの間、不明となるのだった。
彌三郎が連行された先は、零下二十度のシベリアの強制収容所。彼に下された刑は十年間の強制労働。収容所での生活は凄惨を極めた。久子と娘の元へ帰りたい、無事かどうかも分からない妻子への思い。その思いが絶望に打ちひしがれる彼が生きようと思う唯一の希望であった。同じ頃、日本にいる久子のもとに役人から「彌三郎がマラリアで死んだ」という知らせが入り久子は衝撃を受けるが、彌三郎は収容所内で理髪師となり、結局7年間刑に服し出所していた・・・。
終戦特集 遥かなる海の果てに(朝日系土曜ワイド劇場)
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1979/08/18 開局20周年記念 終戦特集 遥かなる海の果てに(朝日系土曜ワイド劇場)松竹制作 出演:古谷一行 梶芽衣子
海軍大佐、堀内豊秋
明治33年(1900)熊本県に生まれる。大正11年(1922)海軍兵学校卒業(50期).海軍砲術学校に教官として在職中、かねてより痛感していた海軍体操改正の必要性を認め、自らデンマーク体操を日本人向けに改良した堀内式体操を考案。
海軍体操の全面的改良に貢献した。
昭和12年(1937)に始まった日華事変に際しては、陸戦隊指揮官として南シナの廈門(アモイ)に進駐,2年間に進駐、2年間軍政に携わり、その間現地住民の信望を一身に集め、堀内部隊交代の報が伝わると住民はこぞって、同部隊の駐留継続嘆願書を現地の最高司令官に提出した。昭和15年部隊が同地を去るに当たり、住民は:「去思碑」と銘した配念碑を建立し大佐の徳を偲んだ。
第2次大戦では、昭和17年1月日本初の落下傘部隊隊長としてセレベス島メナド(現インドネシア領)攻略作戦に参加。自ら降下部隊の先頭に立ち活躍、成功を収め、内地帰還後、天皇陛下に異例の単独拝謁を許される栄誉を受けた。
終戦後、メナドにおける部下の過失に対する責任を問われてオランダ軍事法廷に召喚され現地弁護人の懸命の努力にも拘らず昭和23年9月25日刑死、48年の生涯を閉じた,オランダ側は刑執行に当たり、特に儀杖兵を配して軍人に対する最高の敬意を表したという。
困ったときには