〜日本電信電話公社の発足〜
日本電信電話公社
(にっぽんでんしんでんわこうしゃ。英文表記は、 Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)は、かつて存在した特殊法人。現在の日本電信電話株式会社(NTT)・NTTグループの前身である、公共企業体。略称は、「電電公社(でんでんこうしゃ)」。ただし、「電々公社」と表記されることもあった。
往年の三公社五現業の三公社(国鉄=現JRグループ、専売公社=現日本たばこ産業、電電公社)の内の、ひとつ。
電気通信事業特別会計の資産と負債の差額をもって、政府の全額出資とされた。
-公衆電気通信役務-
電電公社が業務としていた公衆電気通信は、1953年8月1日施行された公衆電気通信法により、日本電信電話公社及び国際電信電話株式会社(KDD、現KDDI)が役務とすることが自明のものとして定義されていた。
公衆電気通信役務を“電気通信設備を用いて他人の通信を媒介し、その他電気通信設備を他人の通信の用に供すること”と定義したうえで、電報の種類、電話の種類のほか、料金そのものも条文中で定められていた。
-財務及び会計-
電電公社は事業年度毎に、予算を郵政大臣に提出し、閣議決定・国会の議決を経て政府から成立の通知を受けた。また決算期につき財務諸表の承認を受けた。一方、資金の借入のほか、政府保証債である電信電話債券(でんでん債。電話加入権ではない)の発行を行い、政府の貸付や債券引受、国庫余裕金の一時使用、更には外貨債務に掛かる債務保証が認められた。
-略称・スローガン-
電電公社の英文略称はNTTである。「NTT」と言う呼称は民営化の時に作られたものではなく、公社時代から既に使われていた。なお、現在のNTTのロゴマークなどは民営化時に作られた。 ちなみに、民営化以前の1980年代前半に「NTT」と言う略称がCMで使われていたことがある。それと同時期に、「もっと、わかりあえる明日へ。」(それ以前は「電話のむこうは、どんな顔」)のスローガンが広告媒体で使われていた。
-組織-
電電公社組織概要図電電公社の経営は経営委員会の下に、総裁、副総裁、理事、監事のメンバーで行われていた。
-経営委員会-
電電公社が行う予算や事業計画策定など重要事項を決定する機関であった。メンバーは議会の承認を得て内閣によって任命され、無報酬とされていた。任期は4年。
-総裁-
経営委員会の同意を経て、内閣が任命をした。電電公社の業務執行と経営責任を課せられていた。国会(逓信委員会など)で、公社における業務説明、報告などを行う義務もあった。任期は4年。
-副総裁-
経営委員会の同意を経て、内閣が任命をした。任期は、総裁と同じ4年。総裁の職務を補佐することが課せられていた。しかし、総裁に任命権はなく、しばしば人事において問題がおきた。初代総裁であった梶井剛は、職務上、直接任命が出来る技師長(技術部門のトップ)を副総裁と同格にしようとしたが失脚した。
-理事-
総裁、副総裁を補佐する役目を持っていた。実質的には、それぞれの部局における職長(局長)が勤めた。メンバーは5〜10人で、総裁が任命した。任期は2年。
-監事-
監査役をかねており、経営委員会により任命された。任期は3年。
-歴史-
日本電信電話公社法により1952年8月1日設立され、国(電気通信省)の公衆電気通信現業部門の業務を継承した。公共企業体として、日本国内の公衆電気通信事業を業務としていたが、1985年4月1日日本電信電話株式会社法により解散。業務等は日本電信電話株式会社に継承された。
法改正による1985年の民営化、及び後発通信事業者(いわゆる新電電)の新規参入まで、国内の通信(電報、専用線など)、通話(電話)業務を独占して行っていた。
なお、民営化の際、「地方では電話局が廃止・無人化されるのではないか」「過疎地で電話が利用できなくなるのではないか」といった反対意見が出された。
-歴代の総裁・副総裁-
総 裁
代数 氏 名 在 任 備 考
初代 梶井剛 1952年8月〜1958年9月 工学博士、元NEC社長
2代 大橋八郎 1958年9月〜1965年4月 元逓信次官、元NHK会長
3代 米沢滋 1965年4月〜1977年1月 工学博士
4代 秋草篤二 1977年1月〜1981年1月 三井物産出身
5代 真藤恒 1981年1月〜1985年3月 IHI(当時の石川島播磨重工業)出身
副総裁
代数 氏 名 在 任 備 考
初代 靭勉 1952年8月〜1958年9月 後、KDD社長に就任
2代 横田信夫 1958年9月〜1962年9月 電気通信省(経理局長)出身
3代 米澤滋 1962年9月〜1965年4月
4代 秋草篤二 1965年4月〜1977年1月
5代 北原安定 1977年1月〜1985年3月 後、NTT副社長
-電信電話拡充改良5ヵ年計画-
・第一次5ヵ年計画:1953年(昭和28年)度〜1957年(昭和32年)度
戦災により壊滅的となった電信電話設備の普及、加入電話の架設促進、市外通話や電報サービスの改善
・第二次5ヵ年計画:1958年(昭和33年)度〜1962年(昭和37年)度
全国番号計画および電話網基本計画の樹立、事務用電話の需給改善、農村等における地域集団や農村公衆電話の普及、近接都市間の市外通話の即時化
・第三次5ヵ年計画:1963年(昭和38年)度〜1967年(昭和42年)度
都市と地方間の電話需給の是正、県庁所在地相互間の市外通話ダイヤル化、農村等における農集電話の普及、合併市町村の電話サービス改善
・第四次5ヵ年計画:1968年(昭和43年)度〜1972年(昭和47年)度
市外通話のダイヤル化、データ通信サービス等の新サービス開発、災害特別対策のための市外交換機の分散設置等、その他新規サービス(自動車電話、キャッチホンなど)開発
・第五次5ヵ年計画:1973年(昭和48年)度〜1977年(昭和52年)度
全国規模で加入電話の積滞解消、広域時分制度の実施、データ通信(キャプテンシステム)サービスの開発、電報制度の近代化
・第六次5ヵ年計画:1978年(昭和53年)度〜1982年(昭和57年)度
画像通信(テレビ電話)サービス提供、光ファイバー・高度情報通信システム(INS)の開発
-その他-
電電公社の公社章が入ったハンドホール蓋電電公社の公式マーク(公社章)は、「電報(Telegraph)と電話(Telephone)」の頭文字の2つのTで円を作り、中央にサービス(Service)の頭文字Sを据えてデザインしたものであった。国土地理院制定の電話局の地図記号にも使われたが、民営化翌年の1986年(昭和61年)に廃止された。
-電電公社社歌-
福島正信 作詞 飯田信夫 作曲
1、 雲とはせ 風とはせ 往くははるけき空のはて
瞬時をおかずたゆむなき 文化のつばさ電電公社
ああ 幾山河はばたきて われら われら
われらは運ぶ 愛を 光を
2、 燃ゆる日も こおる夜も はばむものなきわが歩み
進みて日日に新しき 技術のほまれ電電公社
ああ 咲く花に先がけて われら われら
われらは若し 夢に 希望に
3、 近き友 遠き友 待つはこの声かのたより
奉仕のまこと町に野に ほほえみ分つ電電公社
ああ 足なみも相和して われら われら
われらは歌う 生きる 楽しさ
困ったときには