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認識論(epistemology)

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詳細 2024年2月19日 19:42更新

refer to : 岩波 哲学・思想事典


1.西洋【概要と歴史的展開】知識、認識など、「知ること」「知っていること」に関する哲学的な考察仕方の総体。存在、実在など、「あるところのもの」に関する研究の総体である存在論や、「すること」に関する行為論などとともに、哲学研究の基本形態をなす。また事実的認識についての理論のみでなく、そうした認識の方法、範域、根拠、限界等の反省的認識についてのメタ理論も認識論に含まれる。「認識論」(epistemology)の語は、たんなる「思いなし」ではない「真知」を意味するギリシア語のエピステーメーに基づく。ソクラテスの対話が「不知の知」への自覚から開始されているように、人間の知識や認識への反省的考察はすでに古代ギリシア時代から哲学的議論の中核をなしていた。アリストテレスやスコラ哲学に代表される古代、中世の存在論的な形而上学においても、判断や推論という人間の認識様式の分析は重視され、それを体系化した古典形式論理学は近代以降も認識論の基本形式として継承されていく。また、近代に至って形而上学が世俗化するとともに存在論から認識論への転回を経た結果、知識の方法、範域、根拠、限界等への顧慮が哲学理論の形成に不可欠な要素とみなされるに至ると、認識論上の形式や立場の区分が近代の思想史的構図を決定するものとなり、近代西洋哲学の歴史はそのまま認識論の展開の歴史と重なることになった。とりわけ数学的世界観に基づき、生得的原理からの演繹による体系的認識を重視したデカルト、スピノザ、ライプニッツ等の大陸合理論と、実験観察に基づく感覚論や経験主義の立場から帰納的な認識を重視したホッブズ、ロック、バークリ、ヒューム等の英国経験論はしばしば対照的な認識観として対比される。さらに18世紀のカントは、人間の理性認識が客観性、普遍性を持ちうるための条件を問う超越論哲学を提唱したが、認識のアプリオリな原理の形而上学的解明と超越論的演繹とに携わるその超越論論理学は、合理的認識と経験的認識との調和、科学的認識の権利根拠の論証、認識の対象と対象の認識という主客構造の二元論とその超克、認識の論理的形式と感覚的質料との統合などの主要な論点に関して、以降の認識論の方向を決定するものであった。19世紀になると、ドイツ観念論、フランス唯心論、コーヘンらの新カント学派などによって、科学的認識の根拠としての新たな認識形而上学の構想が示されて、認識論が論理学と同義的に用いられるまでになり、認識論的な哲学は隆盛期を迎える。「認識論」という概念自体が18世紀中葉から20世紀前半にかけてバウムガルテン、ラインホルト等に初出し、フェリアー、ツェラー、N.ハルトマン等によって人口に膾炙した新しい概念であることも、こうした事情によるものである。
その後、19世紀末以降の言語論的転回によって、心理学や論理学は形而上学的な認識論から離れ、言語学や数学、情報科学などと結合した現代の分析的論理学が科学的認識の問題を扱うようになるにつれて、理性能力の超越論的分析に基づいた伝統的な認識研究は、とりわけ英米圏では衰退する。しかし、論理の問題が広義の言語哲学に吸収され、科学的認識の問題が言語分析の問題へと移管された20世紀後半からは、理論の反証可能性に関するポパーらの議論やクワインの自然化された認識論など、言語的認識の範囲や妥当性をめぐる議論が再燃し、英米の分析哲学と現代ドイツの超越論的な認識論との間でも、知識の研究的基礎づけや概念図式に関する論争が生じた。さらに今日では、認知科学や脳・神経科学、確率論や情報理論、進化論的認識論や言語行為論、コミュニケーション理論などの、周辺科学の成果を取り込んだあらたな視点に基づいた認識論の見直しが進められている。
【基本的関心】伝統的に認識が問題とされる際につねに顧慮されてきたのは、「不知の知」に典型的に示される人間の認識の有限性、不完全性であった。別言すれば認識論的研究の根底には、そうした限界の中でもわれわれの知に何らかの原理性や基礎づけを与え、普遍妥当性、客観的必然性、完全性などを確保したいという、世界のロゴス化に対する人間の根源的関心が存していると言える。
このため近代の多くの認識論的哲学は、われわれの認識や知識の事実問題の解明にとどまらず、カントの超越論的演繹に典型的なように、意識や表象、言語などの形で明示されるそれらの知の客観的な権利根拠をも論証するという形態をとった。さらに客観的必然性や正当性への妥当要求からは、明示的な認識における真理性とはいかなるものかという真理論が生じ、それぞれの世界観に応じて対応説、反映説、構成説、整合説、有用説、全体論などの立場が区分されるに至った。他方で、意識の直接所与や言語表象などに明示されない知識についての哲学的考察は閑却されてきたが、19世紀後半以降の心理学により無意識的知、深層知の存在が明らかになり、またプラグマティズムや西田幾多郎にも存した根源的な純粋経験の分析、本質認識の問題に発する現象学や実存哲学などによって、知識の領域は拡大されている。さらに合理的な世界認識の正当性の主張についても、ハーバマースらのイデオロギー批判やポスト・モダニズムなどによって認識の社会性や歴史性への顧慮が要求され、宗教的認識や神秘主義への関心も増大している。このように今日では、認知論が扱う領域は、理性中心の主知主義による知識の客観的基礎づけという従来の形態に比して大幅に拡大されている。
【認識の諸区分】上述した基本的関心の方向と知識の様相とに応じて、認識や知識の考察に際しては以下のようなさまざまな区分が立てられてきた。認識の要素に関する「質料、形式」、認識の程度に関する「思いなし(ドクサ)、信、知識(真知)」、認識能力の段階に関する「感覚的(感性的)、知性的(悟性的、思弁的、合理的)、直観的(直覚的)」、認識能力の範域に関する「理論的、実践的、美感的」、認識の起源や発生に関する「経験的(後天的・アポステリオリ)、先天的(生得的・アプリオリ)」、認識仕方の方向に関する「演繹的、帰納的」、認識の受容に関する「説明(合理的記述)、理解(了解)」などの区分はその代表的なものである。さらにそうした認識仕方において成立する世界の構造についても、「主客未分の一元論、認識主体と客体世界との二元論、言語や表象を媒介とする三元的構造、動的に展開する弁証法的構造」など、さまざまな主張がある。また認識論が認識のいかなる位相を扱うかに関しても「知識や認識そのものの立場、そうした認識についての事実的体系的言表の立場(認識の形而上学)、認識にかかわる言表について吟味する立場(認識批判・超越論的認識)」等が区別される。
2.インド インド哲学において認識は、認識手段(プラマーナ)、認識対象(プラメーヤ)、認識主体(プラマートリ)、認識結果としての知識(プラミティ)の4つを要因とするとされる。正しい認識手段によって対象を間違いなく理解してはじめて人間の活動は有効なものとなるのであるから、とりわけ認識手段と認識対象について論じることが、重要なテーマとなる。そこでは、認識手段についての問い〈プラマーナ論〉が認識論を、認識対象についての問い〈プラメーヤ論〉が存在論を、構成していると言ってよいだろう。『ニヤーヤ・スートラ』は、その冒頭に、自派の学問体系を構成する16の主題を列挙するが、認識手段と認識対象の二つをまず提示してこれを優先し、さらに認識手段を知覚・推論・類推・証言の4つに限定してそれぞれを定義している。これは〈討論の規則〉を主題とする論証学が、認識論へと脱皮したことを物語る。もっとも、認識論がインド哲学の中で大きな位置を占めるようになるのは、ディグナーガが、認識論・論理学の画期的な体系化を果たしてからのことである。以後インド思想界では、活発な論争が各学派間でくりかえされ、6世紀から11世紀は、さながら認識論の時代となった。ヴァイシェーシカ学派のプラシャスタパーダ、ニヤーヤ学派のウディヨータカラ、ジャヤンタ・バッタ、ウダヤナ、ミーマーンサー学派のクマーリラ・バッタ、仏教のダルマキールティ、シャーンタラクシタなどの名を挙げうるし、ジャイナ教でも独自の認識論が確立された。
認識手段は、一般に「正しい知識の手段」と定義される。「正しい知識」とは、対象のあるがままの認識であるから、認識手段について問うことは、認識発生の心理的メカニズムや、対象とされるものの存在構造そのものを問うことでもある。これは、たいてい知覚論の一環として論じられている。それはまた知識の分類やその性格についての議論、知識の真偽と有効性についての議論(真理論)、知の誤謬はなぜ起こるかの議論(虚偽論)と密接に関連するものであった。
[認識手段の数と性格] 唯物論者とされるチャールヴァーカは知覚のみを認識手段とした。ヴァイシェーシカ学派は知覚と推論の2種を認め、サーンキヤ学派はこれに〈証言〉を、ニヤーヤ学派はさらに〈類推〉を加える。ミーマーンサー学派のプラバーカラ派はこれに〈論理的要請〉を加え、バーッタ(クマーリラ)派はさらに非存在認識(否定)を独立の認識手段として合計6種を認めている。仏教は、もとはニヤーヤ学派と同様に4種の認識手段を認めていたが、ディグナーガに至って、知覚と推論の2種に限定した。これは知識を、実在を対象とする直接知と、概念的な思惟作用を伴う判断知とに区別して、類推や証言をこの概念的思惟作用のうちに含めるからである。このうち、〈類推〉とは、たとえば、「ガヴァヤは牛に似ている」と聞いた人が、実際に牛との共通性をもつ対象(水牛)を知覚したとき、「ガヴァヤ」という名称で呼ばれるのはこれだと理解する認識の仕方である。証言、相似性の知覚による対象の認識、対象と名称との結合の理解といった要素が複合している。〈論理的要請〉とは、不可解な事柄について、「これ以外はありえない」という仕方で結論を導く方法である。ニヤーヤ学派などはこれを推論の一種と見る。非存在(無)の認識については、論者によって見解が分かれるが、知覚あるいは推論に含むのが一般的である。仏教論理学派は、推論を構成する3種の論理的理由のひとつに非認識を数え、非存在の認識を推論に含めた。言葉による認識の問題は重要である。〈聖典〉は、日常の認識では把捉不可能なものについての知識を与えるとして、これに絶対の権威を認めるのは、バルトリハリである。ミーマーンサー学派も同様である。ニヤーヤ学派は、〈証言〉を「信頼できる人の言葉」と定義し、これを認識手段と認めるが、その信頼性の根拠には各人の知覚があるとする。仏教は証言を別個の認識手段とは認めないが、ダルマキールティ以後、仏(ブッダ)の言葉の権威を積極的に立証しようとしている。

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