ルイ・クロード・ド・サン=マルタン
Louis Claude de Saint-Martin
生涯
ルイ・クロード・ド・サン=マルタン(1743年1月18日−1803年10月23日)は「知られざる哲学者」(le philosophe inconnu)として知られるフランスの哲学者であり、彼はこの名の下に著作を出版した。
彼はアンボワーズの貧しい貴族の家に生まれた。
父親の希望に従って彼は当初法務の分野に進んだが、その後軍務に就いた。
ボルドーの連隊に所属していた時、彼はマルティネス・ド・パスカリの影響を受けた。マルティネス・ド・パスカリはユダヤ系ポルトガル人であると言われることが多いが(後世の研究によれば、彼はカトリックのスペイン人であった可能性がある)、パスカリはカバラを源泉とする神秘主義の類を教え、その上に魔術や降霊術の儀式を伴う秘密結社を創設しようとしていた。
1771年、サン=マルタンは神秘思想の唱道者となるために軍隊を去った。彼は話術の才能によりパリのサロンで歓迎されたが、彼の情熱は彼を英国へと導き、当地でイギリス人神秘家ウィリアム・ローと知り合った。そしてイタリアやスイス、フランスの主要な都市を巡った。1788年、ストラスブールで、彼は彼にヤーコプ・ベーメの著作を紹介したシャルロット・ド・ベックリンと出会い、ロマンチックな愛情を抱いた。
貴族として、フランス革命中に彼は抑留され財産を没収された。彼は後に、地方の役人により解放されたが、この役人はサン=マルタンが学校の教員になることを望んでいたのである。サン=マルタンは厳格なカトリックの家庭に育ち、最後まで教会に留まっていたが、彼の最初の著作である『誤謬と真理』は『禁書目録』に掲載されることとなった。1803年10月23日、彼はパリ近郊のオーネーで没した。
著作
彼はヤーコプ・ベーメの著作をドイツ語からフランス語に翻訳した最初の人である。彼の晩年のほとんど全ては彼の主要な著作の構想とベーメの翻訳に費やされた。出版された彼の書簡集は、彼が唯心論、磁気療法、魔術的招魂、エマヌエル・スウェーデンボルグの著作に関心を持っていたことを示している。
彼の代表作は『ある友人への書簡、或いはフランス革命についての哲学的宗教的考察』等々である。他の論考は『没後全集』(1807年)で公になった。サン=マルタンはフランス革命を最後の審判の前例ではないにしても、現実に起きた警告であると考えていた。彼の理想社会は自然的・霊的な神政である。その神政において神は才能ある傑出した人材を抜擢し、神に抜擢された者達は自身を人々を導くための神聖な代理人と見なすとされる。全ての教会組織は消滅し、純粋な霊的キリスト教社会のために取って代わられる。その考えは、我々が神についての知を引き出す能力は、理性的な道徳感覚に優越するという主張に基礎を置く。神は永遠の人格として存在し、被造物はそれ自体において留まることの不可能な神の愛の湧出である。人間の知性ないしは精神である魂は、宇宙の精神であり、元素ないしは物質はこの神の流出の四段階であり、人間は神の直接の反映であり、そして自然は人間の反映である。しかし人間は彼の高い地位から転落してしまい、物質は人間の堕落の結果である。しかし神の愛は、キリストにおいて人性と結合され、最終的再生において働くであろう。
影響
彼の著作の賞賛者達は、「サン=マルタン友の会」というグループを結成し、それらは後にマルティニストとして知られることとなった。彼らは「黄金の夜明け団」の形成に影響を及ぼした。