皆様
何れ時間ができたら・・・・・65歳以降になろうか。在家出家をし遺骨収集団に参加し、英霊の遺骨を収集したい。厚生労働省 NP0法人でいまでも活動を行っている、まだまだ未発掘遺骨が大変多いようである。
旧帝国日本軍は外地で防人となり、国民、自分の愛する人、家族の為に銃を取った。戦争によって想像を絶する苦痛の末の亡くなった多くの軍人・軍属・台湾・朝鮮の人々の遺骨収集及び供養を行い。日本国が世界経済GDP2位の大国になれたのは、そうした先人達の苦労・苦悩・命の賜物。私達、残された国民として先祖が託した新生日本国の発展に感謝し、遺骨収集等は当然として、彼等の痛み、究極的な心理、怒り、悲しみを少しでも理解・緩和できる事、成仏を望みます。
(参考:祖父の場合)
旧帝国陸軍が使用していたロケット砲です。
従来、沖縄戦で最初に使用されていたとのお話でしたが、フィリピン 尚武集団 マニラ防衛隊 でも陸軍の援護で使用されています。
拙者の祖父は将校で、リザ−ル州で戦死しております。
日本人として、祖父としての思いいれがあります。
コミュニティを作成致しましたので、ロケット砲について語り合いましょう。
宜しくお願い申し上げます。
試製四式七糎噴進砲(しせい4しき7せんちふんしんほう)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国陸軍が製造した携帯式対戦車ロケットランチャー。ロケットのロと対戦車弾のタを取ってロタ砲とも呼ばれる。
ドイツのパンツァーシュレックやアメリカのバズーカに類似した携帯式ロケットランチャーではあるが、使用する噴進弾は一般的な翼安定式ではなく、底部にあいた複数の孔から斜めに吹き出すロケット噴進による旋動(スピン)安定式で、形状も先端に丸みのある旧型の銃砲弾の弾頭に近い。1943年にドイツから潜水艦によってパンツァーシュレックの図面がもたらされたが、開発は難航し、実戦配備されるのは終戦間際になってからであった。
試製四式七糎噴進砲のデータ 制式名 −
全長 1.5m
砲身長 1.5m
重量 8.1kg
口径 74mm
発射速度 −
最大射程距離 750m
有効射程距離 100m
開発者 第一陸軍技術研究所
製造数 3000門以上?
ドイツ軍(参考)
プップヒェン("Puppchen"=お人形ちゃん)こと8.8 cmロケット発射器43型(後に8.8 cmロケット式対戦車銃43型に名称変更)とは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍で採用された、口径88mmの対戦車ロケット砲である。一般的なロケットランチャー(噴進弾発射器)と異なり、火薬式の砲と同じく閉鎖機を持っていた。
概要 [編集]
本砲は開発の経緯を記した資料が少なく、同威力のロケット弾を用いるパンツァーシュレックとの開発の前後関係など、謎な部分が多い。(後述する使用ロケット弾は、プップヒェン用の方が形式ナンバーが若い。)構造はシンプルで、プレス加工の鋼板を溶接した単脚型砲架、発射時にロケットの燃料の燃えカスが吹き付けるのを防ぐ薄い盾、二重構造の肉の薄い砲身、俯仰・旋回にギアを用いず駐退機も無いシンプルな砲架、2個の転綸で構成され、通常の砲に比べ玩具のように小さく簡易な作りであった。車輌での牽引や馬匹による長距離移動の際には 2.8cm重対戦車銃用の物と同じプレス鋼板製の転綸、または雪上用のソリを装着することもできた。戦闘時にはより姿勢を低くして敵に発見されないようにするために、これらを外し砲に紐を付けて引きずっていくことができた。また8個の部品に分解して、人力で長距離運搬することもできた。
本砲のロケット弾はRGr4312であり、後に採用されたパンツァーシュレック用のRPGr4322及び4992と同じ弾頭を用いており、形状が良く似ている。しかしパンツァーシュレックでは、反動を無くすためロケットの推進力を発射器で受け止めず、後方に爆風として半ば捨ててしまうのを補うため推進剤が多く、ロケット弾の全長が少し長くなっている。これに対し、薬室(というか砲身後部末端)の閉鎖機を持つプップヒェンでは発射時の爆風を全て砲架で受け止め、二重になった砲身の間から前方にガスを逃す方式で、発射時に反動で砲全体が2〜30cmは跳ね上がるのが、記録映像でも確認できる。
プップヒェンは携帯式ロケットランチャーであるパンツァーシュレックに対し、有効射程が350m、最大射程が700m、砲口初速が150m/sと優越している。しかし威力の割に小型軽量であるとはいえ、パンツァーシュレックほど生産コストや軽快さに優れるものではなく、1943年中に少数が作られただけに終わり、その活躍もあまり記録されていない。
★最後に、戦争で犠牲になられた多くの御霊に対し心からご冥福を心からお祈り致します。
メンバーの参加コミュニティ
困ったときには