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「ちいちゃんのかげおくり」
あまん きみこ 作
「かげおくり」って遊びをちいちゃんに教えてくれたのは、お父さんでした。
出征する前の日、お父さんは、ちいちゃん、お兄ちゃん、お母さんを連れて、先祖の墓参りに行きました。
その帰り道、青い空を見上げたお父さんが、つぶやきました。
「かげおくりのよく出来そうな空だなぁ。」
「えっ、かげおくり。」
とおにいちゃんが聞き返しました。
「かげおくりって、なあに。」
と、ちいちゃんも尋ねました。
「十(とお)、数える間、影法師をジッと見つめるのさ。 十、と言ったら、空を見上げる。すると、影法師がそっくり空に映って見える。」
と、お父さんが説明しました。
「父さんや母さんが子供のときに、よく遊んだものさ。」
「ね。今、みんなでやってみましょうよ。」
と、お母さんが横から言いました。
ちいちゃんとお兄ちゃんを中にして、四人は手を繋ぎました。そして、みんなで、影法師に目を落としました。
「まばたきしちゃ、だめよ。」
と、お母さんが注意しました。
「まばたきしないよ。」
ちいちゃんとお兄ちゃんが、約束しました。
「ひとうつ、ふたあつ、みいっつ。」
と、お父さんが数え出しました。
「ようっつ、いつうつ、むうっつ。」
と、お母さんの声も重なりました。
「ななあつ、やあっつ、ここのつう。」
ちいちゃんとお兄ちゃんも、一緒に数え出しました。
「とお。」
目の動きと一緒に、白い四つの影法師が、すうっと空に上がりました。
「すごうい。」
と、お兄ちゃんが言いました。
「すごうい。」
と、ちいちゃんも言いました。
「今日の記念写真だなあ。」
と、お父さんが言いました。
「大きな記念写真だこと。」
と、お母さんが言いました。
次の日、お父さんは、白いたすきを肩から斜めに掛け、日の丸の旗に送られて、列車に乗りました。
「体の弱いお父さんまで、いくさにいかなければならないなんて。」
お母さんがぽつんと言ったのが、ちいちゃんの耳には聞こえました。
ちいちゃんとお兄ちゃんは、かげおくりをして遊ぶようになりました。ばんざいをしたかげおくり、片手を上げたかげおくり。足を開いたかげおくり。色々な影を空に送りました。
けれど、いくさが激しくなって、かげおくりなど出来なくなりました。
この町にも、焼夷弾や爆弾を積んだ飛行機が飛んでくるようになりました。そうです。広い空は、楽しい所ではなく、とても怖い所に変わりました。
夏の初めのある夜、空襲警報のサイレンで、ちいちゃんたちは目が覚めました。
「さあ、いそいで。」
お母さんの声。
外に出ると、もう、赤い火が、あちこちに上がっていました。
お母さんは、ちいちゃんとお兄ちゃんを両手に繋いで、走りました。
風の強い日でした。
「こっちに火が回るぞ。」
「川の方に逃げるんだ。」
誰かが叫んでいます。
風が熱くなってきました。炎の渦が追いかけてきます。お母さんは、ちいちゃんを抱き上げて走りました。
「お兄ちゃん、はぐれちゃだめよ。」
お兄ちゃんが転びました。足から血が出ています。ひどい怪我です。お母さんは、お兄ちゃんをおんぶしました。
「さあ、ちいちゃん、母さんとしっかり走るのよ。」
けれど、たくさんの人に追い抜かれたり、ぶつかったり――――― ちいちゃんは、お母さんとはぐれました。
「お母ちゃん、お母ちゃん。」
ちいちゃんは叫びました。
その時、知らないおじいさんが言いました。
「お母ちゃんは、後から来るよ。」
そのおじいさんは、ちいちゃんを抱いて走ってくれました。
暗い橋の下に、たくさんの人が集まっていました。ちいちゃんの目に、お母さんらしい人が見えました。
「お母ちゃん。」
と、ちいちゃんが叫ぶと、おじいさんは、
「見つかったかい、良かった、良かった。」と下ろしてくれました。
でも、その人は、お母さんではありませんでした。
ちいちゃんは、独りぼっちになりました。ちいちゃんは、たくさんの人たちの中で眠りました。
朝になりました。町の様子は、すっかり変わっています。あちこち、煙が残っています。どこが家なのか―――――。
「ちいちゃんじゃないの。」
と言う声。
振り向くと、はす向かいのうちのおばさんが立っています。
「お母ちゃんは。お兄ちゃんは。」
と、おばさんが尋ねました。ちいちゃんは、泣くのをやっとこらえて言いました。
「おうちのとこ。」
「そう、おうちに戻っているのね。おばちゃん、今から帰るところよ。一緒に行きましょうか。」
おばさんは、ちいちゃんの手を繋いでくれました。二人は歩き出しました。
家は、焼け落ちてなくなっていました。
「ここがお兄ちゃんとあたしの部屋。」
ちいちゃんがしゃがんでいると、おばさんがやって来て言いました。
「お母さんたち、ここに帰ってくるの。」
ちいちゃんは、深くうなずきました。
「じゃあ、大丈夫ね。あのね、おばちゃんは、今から、おばちゃんのお父さんの家に行くからね。」
ちいちゃんは、また深くうなずきました。
その夜、ちいちゃんは、雑嚢の中にいれてあるほしいいを、少し食べました。そして、壊れかかった暗い防空壕の中で、眠りました。
「お母ちゃんとお兄ちゃんは、きっと帰ってくるよ。」
曇った朝が来て、昼が過ぎ、また、暗い夜が来ました。ちいちゃんは、雑嚢の中のほしいいを、また少しかじりました。そして、壊れかかった防空壕の中で眠りました。
明るい光が顔に当たって、目が覚めました。
「まぶしいな。」
ちいちゃんは、暑いような寒いような気がしました。ひどく喉が渇いています。いつの間にか、太陽は、高く上がっていました。
その時、
「かげおくりのよく出来そうな空だなあ。」
と言うお父さんの声が、青い空から降ってきました。
「ね。今、みんなでやって見ましょうよ。」
と言うお母さんの声も、青い空から降ってきました。
ちいちゃんは、ふらふらする足を踏みしめて立ち上がると、たった一つの影法師を見つめながら、数え出しました。
「ひとうつ、ふたあつ、みいっつ。」
いつの間にか、お父さんの低い声が、重なって聞こえ出しました。
「ようっつ、いつうつ、むうっつ。」
お母さんの高い声も、それに重なって聞こえ出しました。
「ななあつ、やあっつ、ここのつう。」
お兄ちゃんの笑いそうな声も、重なってきました。
「とお。」
ちいちゃんが空を見上げると、青い空に、くっきりと白い影が四つ。
「お父ちゃん。」
ちいちゃんは呼びました。
「お母ちゃん、お兄ちゃん。」
その時、体がすうっと透き通って、空に吸い込まれて行くのが分かりました。
一面の空の色。ちいちゃんは、空色の花畑の中に立っていました。見回しても、見回しても、花畑。
「きっと、ここ、空の上よ。」
と、ちいちゃんは思いました。
「ああ、あたし、お腹が空いて軽くなったから、浮いたのね。」
その時、向こうから、お父さんとお母さんとお兄ちゃんが、笑いながら歩いてくるのが見えました。
「なあんだ。みんな、こんな所にいたから、来なかったのね。」
ちいちゃんは、きらきら笑い出しました。笑いながら、花畑の中を走り出しました。
夏の初めのある朝、こうして、小さな女の子の命が、空に消えました。
それから何十年。町には、前よりも一杯家が建っています。ちいちゃんが一人でかげおくりをした所は、小さな公園になっています。
終わり