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昨年逝去したチェリスト・指揮者・ピアニスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの妻でソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ Galina Vishnevskaya (Галина Павловна Вишневская 1926年10月25日生)のコミュニティ。
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ソヴィエト最大のソプラノ歌手であり、モスクワ・ボリショイ劇場オペラきってのプリマ・ドンナである。美人の産地で有名なレニングラードに生まれ、チャイコフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」のタチアーナ役でデビューした。このタチアーナはロシア女性の理想像といわれるが、ヴィシネフスカヤはそれにふさわしい美しい容姿と豊かな表現力に恵まれている。このことは1970年、ボリショイ・オペラ日本初公演の舞台でも実証されたが、このときはもうひとつ大きな話題があった。ロストロポーヴィチが新演出にもとづいてはじめて指揮台に立ち、このロシア古典に新しい生命を吹き込んだことである。ついでプロコフィエフの大作オペラ「戦争と平和」での指揮棒をとったが、ここでもヒロインのナターシャは、もちろんヴィシネフスカヤ。ソヴィエトには、こうした音楽家夫妻が多いが、そろって第一級の現役として活躍している点、このロストロポーヴィチ=ヴィシネフスカヤ夫妻の右に出る者はいない。
(以上、1975年刊行『続・素顔の巨匠たち』より。文がきれいですので、そのまま抜粋してみました)
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1950年、レニングラード・オペラでプロデビュー、1953年にタチアーナ役でモスクワ・ボリショイ劇場デビューを歌う。1961年には『蝶々夫人』でアメリカのメトロポリタン歌劇場に、翌年には『アイーダ』でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に、1964年には『トゥーランドット』のリューでミラノ・スカラ座デビューをはたす。
1962年5月30日、イギリスのウォリックシャー州コヴェントリー市の聖ミカエル大聖堂の献堂式で、ベンジャミン・ブリテン作曲の『戦争レクイエム』が初演された。
ブリテンはこの合唱曲のソロパートであるテナー、バリトン、ソプラノにシンボリックな意図をこめた。第二次世界大戦で交戦したイギリス、ドイツ、そしてロシアの歌手をたてて上演するつもりでロシア人からはソプラノのヴィシネフスカヤを選び、彼女をイメージして筆をすすめた。しかし初演にヴィシネフスカヤは参加できなかった。ソ連政府が冷戦の威風をふりかざし、ヴィシネフスカヤの出国を阻んだ。翌年にブリテンはロンドンのキングスウェイ・ホールで『戦争レクイエム』を自身の指揮で録音する。ソプラノパートに、悲願だったヴィシネフスカヤを参加させて。
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1970年、夫のロストロポーヴィチが作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンを擁護したことで政府から「反体制」とみなされ、国内外すべての演奏活動を禁止される。1974年、2年間のヴィザを取得したロストロポーヴィチの出国にヴィシネフスカヤも同行、ふたりは亡命する。ソヴィエト政府は夫妻のソ連国籍を剥奪するが1990年(ソ連崩壊の前年)に、国籍を返還した。
げんざいは後進の育成にあたり、子供の医療改善をめざした「ヴィシネフスカヤ=ロストロポーヴィチ財団」による活動もおこなっている。
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ヴィシネフスカヤは、アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『チェチェンへ アレクサンドラの旅』で、80歳の映画デビューを果たした。
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