シマウタ好きの間で評価の高いらしい”黄金の花”なる歌について考えてみたく思います。
岡本おさみ作詞・知名定男作曲。ネーネーズの歌唱がどうやらオリジナルで、その後、いろいろな歌手たちがレパートリーに入れています。
この歌は沖縄音楽関係者の間で、すでに”名曲”みたいな扱いを受けている。それが定評、みたいになってるけど、本当にそうなんでしょうか?
歌詞を載せていいのかどうか。幸い、全歌詞を掲載しているサイトがあったので、下にそこのURLをリンクしておきます。読んでみてください。
"http://
この歌、どうやら海外から日本に出稼ぎにやって来た人々に呼びかけるという仕様のようです。日本の生活のペースに巻き込まれ、心を曇らせないでと呼びかけているようなんですが。
この歌を聴いてまず首をかしげてしまうのは、彼ら”きれいな目をした人たち”は「黄金の花はいつか散る」ことを、いちいち我々が”指導”してやらないと気もつけない連中なのか?ってことです。
この詩を読んでいただければお分かりになるかと思うんですが、ここでは彼ら”他所の国の人々”は、ろくに判断力もなく、ただただ助力を必要としているひ弱で無能な人々、そんな風に描かれています。
少なくとも、彼らの伝統や文化に対するリスペクトってのはこの歌詞の中からはまったく読み取れませんよね?
そう思って読み直してみればこの歌詞、物言いは丁寧なように見えますが、すべて上から目線です。この詩の中では海外からの人々はまるで、明日にでも死にそうな病人か老人みたいにみえます。
彼らはあくまでも、”よりすぐれた上位者からの庇護や助言を必要としているひ弱な人々”なんですね。で、その上位者ってのは「もちろん、我が優秀なる日本民族である」なんて奢った意識、この歌詞の裏に脈々と息付いてはいないか、もしかして?
だって、ここには彼らに対し、”もしかしたら我々の側こそが教えを請わねばならぬ貴重な文化をその内に秘めているかもしれない人々”なんて形で敬意を払おうなんて姿勢は覗えないんだから。ただただ”弱者”として、庇護の下に置かれるべき非力な人々として扱われているんですね。
この曲の存在意義って、なんなのか?
何のことはない、この歌を作り、あるいは歌い、あるいはひいきの歌手がそれを歌うのを聴き、「ああ、弱い立場の人々を思いやってあげている私って、なんて心優しく正しい人なのっ!」と自分に感動する、ための、自己陶酔するための、自己満足するための、お茶番ソングじゃないのか、つまりは。
そう思うと、なんかムカムカしてくるんですがねえ。あの唄を名曲扱いする諸氏よ、あの歌にそのような違和感を抱いたこと、ないんですか?
ここはそんな疑問を抱いた人々のためのコミュです。