北海道の代表的民謡でありながら、日本民謡を代表する「民謡」でもあります。
代表的な歌い手は、青坂満師。
プロの北海道を中心とした民謡歌手なら佐々木基晴師など。
また、地元の若手もいらっしゃいますが、なかなか知られてはいません。
初代・浜田喜一師も江差追分の名手でしたが、北海道では、決して歌いませんでした。なぜなら、「自分が北海道で歌えるわけがない」ここには、地元江差や北海道の人々への尊敬と江差追分を愛するが故の事でした。
江差追分は、元来漁師唄。なので、プロが最初からいたわけではありません。
青坂満師も漁師さんです。しかし、好きで、好きで唄いだした江差追分。現在は、江差追分会副会長・江差追分会師匠会会長・江差 追分会正師匠・江差追分全国審査委員・格付審査委員長・江差追分会館専任指導員として、さらに江差追分に大きく関わり活躍中。
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日本を代表する民謡の一つに数えられる「江差追分」。この起源については文献も無く成立年代も不明ですが、信州の馬子唄と伊勢松坂節の二つに起源があると考えられています。
信州中仙道の馬子唄がまず越後に伝えられ、海の調べに変わり舟唄となって、越後追分が生まれました。これが蝦夷地通いの船頭衆や船子たちによって江差に運ばれ、浜子屋の中で商家の旦那衆、ニシン大尽、船頭衆が、酒と女の遊びの中で唄い伝えられてきました。
一方、伊勢松坂節は、松崎兼良によって編曲されて松坂くづしとなり、越後での祝い事のとき兼良節として唄われるようになりました。これが民衆に唄い込まれるようになって江差に入ってきました。
この二つの唄を母体とし、それに北前船で運ばれた様々な唄の要素が加わって、江差の漁場と商港という環境の中で独特の情緒を持った江差追分として育ったものだろうと考えられています。
江差追分の成立に重要な働きをしたのが琵琶師の座頭佐野屋市之丞こと佐之市で、
「追分のはじめは佐之市坊主で、芸者のはじめは蔦屋のカメ子」
と唄われています。
佐之市は寛政年間(1789年〜1801年)、盛岡から来た琵琶師で、その作という
「色の道にも追分あらば、こんな迷いはせまいもの」
という詩が残されています。東本願寺の境内には佐之市の碑があり、江差追分全国大会の前日に、佐之市の法要が行われます。
さて、江差追分には前唄、本唄、後唄がありますが、本体はあくまで本唄です。明治23年、南部水沢の虚無僧、大島大二郎が越後で修得した舟唄を追分の前唄とし、その後、大正10年、神戸の琴古流尺八の内田秀堂師が来遊して後唄を付けたといいます。
さまざまな流派のあった江差追分が「正調江差追分」として、現在の形に定着したのは、明治41年、平野源三郎(正鴎軒)が各師匠に江差追分の統一を働きかけ、江差追分正調研究会が発足したのがきっかけです。
平野源三郎は、小桝のばあさんと呼ばれた三味線の名手の弟子で、この小桝のばあさんの唄が正調江差追分の元祖とされています。ばあさんから教えを受けた平野源三郎は、明治20年代の末頃に正調江差追分平野派を創設し、普及につとめるとともに音譜化の研究をはじめました。その後、平野源三郎師匠を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、平野源三郎師が東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのでした。
正調江差追分本唄は、7節を2分20秒から2分25秒までに唄い終わるものとされ、1節は大波の上より次第に海底へ沈む思いを唄い、2節は沈んだ思いより次第に浮き上がる感じを表し、3節はその浮き上がった思いより、逆に海底に引き込まれるような感じをもち、4節はより悲哀の調子となり、5節は骨子となるところで、情熱に血を吐く思いという感じを出し、6節で3節の海底に引き込まれる思いと同じくし、7節は4節の哀愁の情緒を持って唄い終わるものとされます。
戦時中、一時なりをひそめていた江差追分も、戦後の昭和22年、江差追分会は再編されてから普及がすすみ、平成18年4月1日現在、江差本部傘下のもと、155支部、会員3,928名をもつ組織となり、日本を代表する民謡としての地位を確立しました。
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より
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江差追分の若手歌い手「香澄」のHP
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自己紹介は・・・
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困ったときには