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高良山 崇拝者

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詳細 2020年10月26日 23:19更新

高良山 高良大社のすごさ(御利益 神秘性 歴史について語り合う もしくはWEBで歴史・不思議等を調べて語り合うコミュニティです。
 
管理人は高良山参拝好きですが、知識には乏しくできればみなさんにすこしづつ高良山のことを教えていただければと思いコミュニティをつくってみました。


わーい(嬉しい顔)高良山を愛する方は是非参加してください

高良大社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%89%AF%E5%A4%A7%E7%A4%BE
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高良大社

所在地 福岡県久留米市御井町1番地
主祭神 正殿:高良玉垂命
左殿:八幡大神
右殿:住吉大神
社格等 式内社(名神大)・筑後国一宮・国幣大社・別表神社
創建 伝履中天皇元年(400年)
本殿の様式 権現造
例祭 10月9日(高良山くんち)
表・話・編・歴
高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。ご祭神論争でも有名で、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説ある。古えより筑紫の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に篤い信仰圏が見られる。厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿・現代では交通安全のご利益でも名高い。また芸能の神としての信仰もある。

目次 [非表示]
1 由緒
2 神紋
3 祭事
4 境内外社
5 文化財
6 交通
7 周辺情報
8 関連項目
9 外部リンク



[編集] 由緒
仁徳天皇55年(367年)または78年(390年)鎮座、履中天皇元年(400年)創建と伝えられる。延喜式神名帳には「高良玉垂命神社」と記載され、名神大社に列している。筑後国一の宮。また、ご祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。

高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前は「高牟礼市民センター」、久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。

現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成した。現在社殿は国の重要文化財に指定され、神社建築としては九州最大の大きさである。

寛政4年(1792年)から50年に一度の祭礼として御神期祭が行われる。平成4年(1992年)には千六百年御神期大祭として、猿田彦、獅子舞、風流(ふりゅう)を先導に、神輿行列が久留米市街地まで練り歩く御神幸祭が執り行われた。

明治4年(1871年)に高良神社として国幣中社に列格し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。


[編集] 神紋
高良玉垂命:横木瓜
八幡大神:左三巴
住吉大神:五七桐

[編集] 祭事
6月1、2日 川渡祭(へこかき祭)
10月9〜11日 例大祭(高良山くんち)

[編集] 境内外社
水分神社 - 奥宮
味水御井神社
大学稲荷神社
伊勢御祖神社
桃青霊神社 - 松尾芭蕉を祀る
愛宕神社
琴平神社
蓮台院御井寺 - 廃仏毀釈により明治2年廃寺
高樹神社
高良下宮社 - 右殿に祇園社あり、通称祇園さん
印鑰神社 - 武内宿禰

[編集] 文化財
重要文化財
本殿・幣殿・拝殿
石造大鳥居 - 明暦元年(1655年)久留米藩第2代藩主有馬忠頼より寄進、昭和53年(1978年)大型車両が接触し、貫が破損したためこの部分だけ新しい
紙本墨書平家物語(覚一本)
国指定史跡
神籠石
国指定天然記念物
孟宗金明竹林



高良大社公式ホームページ
http://www.kourataisya.or.jp/

神籠石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
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神籠石(こうごいし)または神籠石式山城(こうごいししきやましろ)とは古代に築造された山城で、「日本書紀」「続日本紀」に記載がなく、遺構でしか存在の確認できないものを指す。古代山城(朝鮮式山城)の比定地にされることもあるが、築造主体など建設の経緯は一切不明である。

特色は、標高200〜400メートルの山頂から中腹にかけて数キロメートルにわたって一辺が70センチメートル位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列し、谷を通過するときには水門を設けていること。

鏡山猛は、列石前面の3メートル間隔で並ぶ掘立柱穴から、唐尺使用の開始する7世紀中頃以降の築造としているが、八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。

神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていない。磐座(いわくら)のことだったという説がある。


[編集] 発見と論争
神籠石が学会に発表されたのは、明治31年に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初。

明治33年に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張して以後、この神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。

昭和38年(1963年)の佐賀県武雄市「おつぼ山」神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3メートル間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。

ただし、散見しただけでもそれぞれの神籠石の差異は大きい。御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域との隔絶性が高く、水も確保しづらく、籠城に向かず、、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」などである。

現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から神籠石と総称している可能性は高く、おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことを確定しただけに過ぎない。生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。

また、仮にこれらすべてが単純に朝鮮式山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代に於いて知る極めて有効な事例であるとの声もある。

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