エリック・サティ(1866〜1925)の言葉「偉大な芸術家はつねにアマチュアだ!」彼の作品は清冽な裸の音楽・・・ドビュッシーやラヴェルに大きな影響を与えたとともに「六人組」以降のフランス音楽の源泉となり、中期のストラヴィンスキー(新古典主義)の先駆者となった。
ジュ・ドゥ・ヴや3つのジムノペディーの美しさに感動した方々はぜひとも参加していただきたいです。
エリック・サティ(父はオンフルールで海運業。母はスコットランド人。幼い時に生地で聖堂オルガニストのヴィノからピアノとグレゴリア聖歌ならびに神秘思想の手ほどきを受けた。
母の死後1878年に父とパリに移る(父はピアノ教師と再婚)。
同年パリ国立音楽院へ入学、和声とピアノを学んだが、アカデミックな音楽に反感を持ち、読書に没頭・・ことにアンデルセンの童話を愛した。
ゴシック建築・グレゴリオ聖歌を研究、ピアノ曲集「尖弓形Ogives」を出版。
砲兵隊に入隊、故意に気管支炎にかかり除隊する。
ピアノ曲旋法的な「3つのジムノペディ」「サラバンド」また小節線を廃した名曲「3曲のグノシェンヌ」を作曲。その作風によりドビュッシーやラベルに大きな影響を及ぼす。
モンマルトルのカフェでピアノを弾き、生計を立てるとともに「バラ十字団」に関心を持ち入団。ここで「星の息子」1891などを作曲。
やがて自分で架空の宗教集団「指導者イエスの芸術首都協会」なるものを設立し機関紙を発行して、気に入らぬ批評家などに対して猛攻撃を行う。
1891年にドビュッシーと会い、友好が始まる。
1898年、モンマルトルからパリ南郊外の貧区アルクィーユ・カシャンに居を移し、独身のまま終生そこにとどまった。
児童福祉のために奉仕的に働く。
1903年、ドビュッシーの「もっと形式を考えるべき」との忠告に答え、ピアノ連弾用の「梨の形の3つの曲Trois Morceaux en forme de poire」を作曲。再び新境地を示す。
1905年、39歳で技術の練磨を志し、ヴァンサン・ダンディーの主宰するスコラ・カントルムに学生として入学。対位法と理論を研究。1908年に優等で卒業。
ラヴェルの肝入りで「独立音楽協会」による「サティの夕べ」開催。この頃から名声があがり、初期からの作品も上演されるようになった。
「サティ主義者」が増加・・・作品も多く生まれる。
フワフワした真の前奏曲(犬のために) ひからびた胎児 馬の衣装で 官僚的なソナティナ 往時と瞬時 などの奇妙な題と注釈をもつが、純音楽的に精妙なるピアノ曲を発表。1915年、ジャン・コクトーと知り合い、その台本で翌年、ディアギレフ舞踊団のために サイレン、タイプライター、飛行機の爆音、ピストルなどをオーケストラに用いたバレー音楽を作曲、ピカソの装置と衣装、マシーヌの振り付けにより1917年にシャトレー座で初演 キュービズムのバレーとして騒がれた。
客観主義美学を唱導してサティをその先導者として賛美しつつ、ミヨー、プーランク、オネゲル、オーリックなどの「六人組」を世に紹介したコクトー・・
サティはヴュー・コロンビエ座、演奏会企画の主宰者となり、「六人組」の作品を庇護・紹介。
その反骨精神ゆえにサティはしばしば誤解されてきました。
が、実は一切の虚飾を切り捨てた、きわめて密度の高い、しかも客観的で透明な音楽を書いた。また、二十世紀フランス音楽を中心とする「旋法意識の復興」も彼に負うところが多い。
「旋法的音楽」旋法〜modo(モード)ドリア旋法、フリギア旋法、リディア、ミクソリディア旋法・・・などの協会旋法。
16世紀までのヨーロッパにおける音楽の音組織・・・
ジャズの帝王「マイルス・デイビス」が、この旋法を使って新しいジャズのスタイルを作り、ジャズ界に一大センセーションを巻き起こした・・とは有名な話であるが、サティの音楽の影響もあったのだろう。
なぜならばサティは1800年代にはもう、このモード色(リディア調)の濃い「グノシェンヌ」やイオニアン長七度和音やドリアンモードを駆使した響きが美しい「ジムノペディ」などの名曲を作曲しているのであるから驚きである。
ジャズファンの多くが「サティファン」である事も納得できるというものである。
困ったときには