江戸時代の蘭学者、高野長英のコミュニティです。
日本の夜明けをリードした蘭学者、高野長英は
仙台藩水沢留守家16,000石の城下に
伊達家の陪臣後藤実慶の三男として
陸奥国胆沢郡水沢村(現在の岩手県奥州市水沢)に生まれました。
2004年が生誕200年に当たりました。
(この伊達家ですが後に正宗の長男が四国宇和島に分家し、
この宇和島伊達家から中津奥平家に養子がでます)
従って江戸際末期には宇和島藩と中津藩とは親しい関係にあったといえます。
14歳のとき母方の伯父の医者高野玄斉の養子となります。
1820(文政3)年江戸に出て蘭方医杉田伯元に学び、
次いで蘭方内科医として聞こえた加賀藩医吉田長淑に師事しました。
文政8年22歳のとき長崎に遊学し、
シーボルトの鳴滝塾で
オランダ語と蘭方の修得に努めています。
翌文政9には論文「鯨魚及び捕鯨に就きて」を
江戸にのぼる旅行の途中で師シーボルトに提出して、
ドクトルの称号を授けています。
足掛け4年、鳴滝塾で研鑚を重ねましたが、
文政11年シーボルト事件
が起こると、いち早く姿をくらまして
熊本、大分、広島、尾道、京都などの各地を転々とし、
1830(天保1)年江戸に舞い戻っています。
江戸では医業の傍ら訳述に専念し、
天保3年にはわが国初の生理学書「医原枢要」と、
蘭方の臨床参考書「居家備用」を著しました。
(いずれも長英記念館に蔵書あり)
この頃には、渡辺崋山・小関三英・鈴木春山らと親交を結び、
「尚歯会」
という勉強会を結成して時事を論じました。
天保の大飢饉に際しては「救荒二物考」を著し、
また異国船打払令が発せられると、
いちはやく「戊戊夢物語」を書いて幕府の対外政策を厳しく批判しています。
そのため天保10年の
「蛮社の獄」においては
永牢の刑(終身刑)を受けましたが、
獄中で著した「蛮社遭厄小記」において
わが国における蘭学の沿革、「尚歯会」の活動、事件の経緯などを論じ、
幕府の蘭学抑圧を非難して無実を訴えました。
(幕府の中にも彼の信奉者は多く、当時の北町奉行・遠山金さん
などもそのひとりです)
1844(弘化1)年獄舎の火災を機に脱走し、
宇和島、広島、鹿児島、木曾、宇和島、江戸と潜行を続け、
その間に翻訳作業と多くの門人の育成に携わりました。
1849(嘉永2)年大胆にも再び江戸に潜入して
沢三伯の名で医業に従っていましたが、
翌嘉永3年江戸・青山の隠れ家を幕吏に襲われてついに自刃しています。
(これには撲殺説もあります。)