コレット・マニー。フランス・フリージャズの起源を語るうえで重要なシャンソン歌手。1926年、フランス国パリにて出生。
音楽家としてのデビューは1962年、36歳の時であり、極めて遅いスタートといえる。最初期は、特に特徴的ではないシャンソン(時としてブルース等)を歌っていた。
『但し、彼女の類い稀な声質はその当時から抜きんでていて、一口で言うと、基音が低く、高次倍音の多い、黒人のブルース歌手に近いものだということは特筆すべきだろう』(大里俊晴)
管理人の私感としても、白人女性で本格的に、−あるいは本質的に、と置き換えても良いだろう−黒人のものであるブルースを、違和感なく表現し得た歌い手は、コレット・マニーの他には初期のカレン・ダルトンやジャニス・ジョプリンなど、片手指に満たない程度しか思い浮かばない。
スタイルとしてはシャンソン・アンガジェ(社会的・政治的にコミットしたシャンソン chanson engagée)であり、その歌詞のほとんどを体制批判歌としている。
例えばアルジェリア紛争であったりキューバ革命であったり、また広島被爆者の”ブラブラ病”なども材に採っている。
音楽的に独自色が出始めるのは、2ndアルバム「ヴェトナム67」('67)辺りからである。
おそらく現代音楽家のアンドレ・アルミュロと組んだことを契機としたのではないかと想像される。
このアルバムよりレコーディング参加者に現代音楽畑やフリージャズ畑のプレーヤーの名が見られるようになり、シャンソン・アンガジェとシャンソン・リテレール(文学的シャンソン chanson littéraire)の理想的な交差へと着実に近接していった。
そして'70年発表の「火とリズム」をもって、そのスタイルは確固たるものとして屹立したと見てよいのではないかと思われる。
更に'71年、アルバム「抑圧」でピアニスト・作曲家のフランソワ・テュスクと再会することにより、より彼女のスタイルはゆるぎなく、ラディカル且つ幅の広さを獲得してゆく。(テュスクは'65年に一度、シングルに参加している)
マニーとテュスクは意を同じくしながらも、表現スタイル上は真逆の変遷を辿り、テュスクは西洋文化中心主義を徹底的に嫌い、それを放擲すべく大衆音楽へと向かい、マニーは自己の表現形態を、より先鋭化させ、さらなる表現の自由度を目指すかの如くアヴァン・ギャルドな道を選び邁進した。
だが、マニーを語る際に、おそらく忘れてはならないことは、彼女の前衛志向が教条主義的なものを起源としていないであろうことである。それは多分、コレット・マニーの音楽の理解者にむけて、いまさら敢えて付け加えるようなことでもないであろうが。
1997年6月12日フランスの自宅にて没。
※上記は管理人(q taro)の私情・私感を混じえて書いたものです。異なったご意見などさまざまあると思います。トピック立てはご自由に行ってください。そこで有益な意見や情報の交換ができれば幸いです。
【Discography】
『Melocoton』(お前の心を叩け) '64
『Vietnam 67』(ヴェトナム67) '67
『MAGNY 68』 '69
『Feu et Rythme』(火とリズム) '70
『Répression』(抑圧) '72
『Transit』(トランジット) '75
『visage-village』(ヴィザージュ−ヴィラージュ) '77
『Un Juif a la Mer』 '77
『Je veux chaanter』(コレット・マニー、ぼくうたいたあい) '79
『THANAKAN』(タナカン) '80
『Cahier d'une tortue』 '80
『Pena Konga』 ?
『CHANSONS POUR TITINE』(ティティーヌの為のシャンソン) '83
『Kevork ou le délit d'errance』(ケヴォーク) '89
※「ur」(ペヨトル工房刊)所収「コレット・マニー或は魂の冒険の軌跡」(大里俊晴)を主に参照させていただきました。
若干情報が錯綜している箇所がありますので、識者のかたのご指摘などもお待ちしております。
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