1959年2月11日、ミュンヒェンにてヴァイオリニストの父ヨゼフ・メルクルと、ピアニストで日本人の母、片山うしおの間に生まれる。
ファーストネームの「Jun(準)」は母方の祖父の名前が由来になっている。(メルクルの祖父は「Junzo Katayama」さんとおっしゃり、横浜の鶴見区に在住し1980年に亡くなった。)日本で漢字表記になっているのはメルクル自身の希望によるものだという。
4歳でピアノ、5歳でヴァイオリンを両親から習い始める。音楽的な環境に恵まれて育った。
ハノーヴァーの音楽学校で母の師でもあるカール・エンゲルにピアノを習う。そのエンゲルに指揮をすることを勧められ、指揮の勉強もはじめる。
エンゲルに言われるまでは指揮者になるなどということは考えていなかったそうである。ハノーヴァー音楽大学では他にヴァイオリン、室内楽等を学んだ。その間に室内楽コンサートや、WDR(ケルン放送)のオーケストラのピアニストとしても活動もしていたようである。
特に特筆すべきこととしては1979年から1981年にかけて、セルジュ・チェリビダッケに学んだことが挙げられる。チェリビダッケには指揮のクラスとミュンヒェン・フィルハーモニーのプローベにおける仕事、その他マインツで行われたチェリビダッケのゼミナール「音楽的現象学」を通じて学んだ。メルクル自身はこの経験について、以下のように語っている。
「この偉大な指揮者との出会いは私にとって非常に重要なキーというべき体験であり、ことに私の学生時代のごく初期に体験することができたことで、それらは私の考え方と指揮に多くの決定的な示唆をあたえた。」
ドイツでの勉強の後、インタビュー記事によると「もっと学びたい」と思った彼はズッカーマンとプレヴィンに相談し、タングルウッドにいくことを勧められた。そこで小沢征爾と出会い小沢の推めで、ミシガン大学のグスタフ・マイヤーの指揮科で勉強することになった。
他にキース・バケルスにも学んだ。
1986年ドイツ音楽評議会(Deutschen Musikrats) の指揮者コンクールに優勝。バーンスタインと小沢征爾によるタングルウッドのコースでボストン響の奨学生としても学んだ。
ヨーロッパヘ戻ってからは、ドイツの伝統的指揮者のコースに乗り、劇場での練習ピアニストとして下積みをはじめる。
劇場の指揮者としてのスタートはルツェルン、ベルン、ダルムシュタット、1991年ザールブリュッケンのGMD(音楽総監督)を経て、1994年にマンハイム国立歌劇場のGMDとなり、その後はウィーン、ベルリン、シュトゥットゥガルト、ハンブルク、ミュンヒェンなどと契約、重要な客演指揮者となる。ミュンヒェンでは1997年にトーマス・ランドルフによる新演出でスメタナの『売られた花嫁』を振った。
オペラ以外にいわゆる独墺圏においてのコンサート活動も盛んである。
主なものとして、ヨーロッパではベルリン、ハンブルク、シュトゥットゥガルト、ケルンなどのラジオシンフォニーオケとのラジオ放送、CD、コンサートで共演している。そのほかミュンヒェンフィルとも共演。(ベルリン放送、シュトゥットガルト放送のCDあり。詳しくはDiskography参照)また近年はアメリカでのコンサート活動も多く行なっている。
マンハイム国立劇場の音楽監督は99/00シーズンまで勤めた。現在もバイエルン州立歌劇場、ベルリンドイツオペラ、ドレスデン国立歌劇場などに客演として数多く登場している。
1996年ハイティンクの代役としてコヴェントガーデンのロイヤルオペラハウスで『神々の黄昏』を指揮して大成功を収める。
1997年NHK交響楽団の特別演奏会に客演して日本デビュー!!各誌面で絶賛される。
1998年4月にはN響の定期公演「世界の若手指揮者シリーズ」で再び日本へ。同じプログラムで、N響ともに大阪フェスティバルにも参加した。この時振った『ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲op.25』の大好評で、日本でのメルクルの知名度が格段に上がった。
同年、オーストラリアのウエストオーストラリア響、メルボルン響を指揮した。(この時の演奏会はラジオ放送されている) この年は他にコペンハーゲンのRSO、パリ管弦楽団と共演している。
1999年はメトロポリタン歌劇場に『イル・トロヴァトーレ』でデビュー。
そして、暮れにはN響との仕事でベートーベンの『第九』を振るために来日した。
2000年は11月にウィーン国立歌劇場の来日公演で『メリーウィドー』を振るために来日して、日本でのオペラデビューを果たした。この時の上演はオケ、アンサンブル、歌手共に低迷し、評判は芳しくなかった。
2000年末から2001年3月にかけて『トラヴィアータ』で再びMETに登場した。
ダラス交響楽団とも初共演。(この時はN響定期で好評だったあのピアノ四重奏曲を振っている。)
2000年の外国オケとの初共演としては夏にボストン響、シカゴ響で振った。
2000年末、ALTUSレーベルよりN響との伝説の公演である、日本デビュー公演とN響定期デビューの録音がCD化され話題になった。
2001年1月のN響定期公演をはじめてABCの3プログラムと地方公演を指揮し、特にメンデルスゾーン「交響曲3番“スコットランド”」は話題を呼んだ。
3月には新国立劇場で『ラインの黄金』を指揮し、日本での本格的なオペラ活動をスタートした。なお、新国立劇場においてはワーグナーの「ニーベルングの指輪」4年連続上演という大プロジェクトの指揮を任されることが決定している。
9月には再びN響の定期公演に登場した。この来日の期間に1月定期で振ったドヴォルジャークの「新世界より」がALTUSレーベルより早々にCD化され、大手レコード店などでトーク&サイン会が開催された。
2002年はボストン響に定期デビュー。(地元のメディア批評では酷評されてしまった。)
ミネソタ管の定期公演にもデビューした。
3月から4月にかけては新国立劇場にてワーグナーの「ワルキューレ」を振って、前回以上の素晴らしい成果を挙げて好評を博した。日本の「レコード芸術」誌にて巻頭カラーインタビューで大きく取り上げられた。(メジャー雑誌でここまで大きな記事が載ったのは初めてで、日本での人気が急上昇していることを示している。)
4月には、ウィーン国立歌劇場で、ハチャトゥリアンの「スパルタカス」のプレミエを振り、注目をあびる。
2002年もアメリカのオーケストラなどを積極的に指揮している。
2002年末にはNHK製作の「マエストロの肖像」が放送され、メルクル初のドキュメンタリー番組となった。
2003年は、新国立歌劇場での「ジークフリート」(前回までの東京フィルに代ってN響がピットに入る)を指揮、大成功を収める。
メルクル自身は新国立劇場の「トーキョーリング」の完成のためチクルス上演をを考えているというので、もしかしたら日本のプロジェクトによる初めてのリング連続上演の実現にも大きな期待が寄せられるところである。
9月、ドレスデン国立歌劇場で「タンホイザー」を指揮し大成功を収める。
10月にもN響定期の3プログラムを指揮するために来日。
マーラーの復活を初めて指揮をして好評を博した。
得意のばらの騎士を組曲で演奏し、「全曲を聴きたい」という声が多く聞かれた。
同11月にはAltusレーベルより第3弾として2001年の1月・9月にN響定期公演で演奏されたメンデルスゾーンの「スコットランド」と「イタリア」がCD発売された。
2004年3月末から4月にかけて新国立歌劇場での「神々の黄昏」を指揮、トーキョーリングが完結した。
2004年は6月にも来日。水戸室内管弦楽団と初共演し大成功を収めた。
2004/2005シーズンの注目の公演としては10月にリヨン国立管弦楽団の演奏会でオネゲルの『火刑台上のジャンヌダルク』を指揮し、次期音楽監督としてのシーズンのオープニングを大曲で飾る。
2005年は4月にNHK交響楽団の定期公演に再登場。同年夏はPMF音楽祭に出演し、アカデミーオーケストラとN響を指揮した。
9月にはリヨン国立管弦楽団のシェフに就任した。
2006年の来日は、6月にN響、7月に国立音楽大学オーケストラ、11月に水戸室内管弦楽団と共演。
2007/08シーズンよりMDR交響楽団(ライプツィヒ放送交響楽団)のシェフに就任。
困ったときには