幕末最大の謎「フルベッキ写真」の真実とは!?
[フルベッキ写真 解説]
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[フルベッキ略歴]
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グイド・ヘルマン・フリドリン・ヴァーベック(Guido Herman Fridolin Verbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。お雇い外国人。オランダ・ザイスト市出身。ユトレヒトで工学を学んだ。日本では発音しやすいようフルベッキ(Verveck)と名乗り、現在に至るまでこのように表記されている。
22歳のときに義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。1年後にニューヨークに移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。その後コレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓い、1855年に神学校に入学した。
[長崎でのフルベッキ]
米国オランダ改革派教会から布教のため上海から長崎に派遣されたが、明治維新前の日本では宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたが、やがて幕府が長崎につくった英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済美館、広運館などと呼ばれた)の英語講師に採用された。大隈重信、副島種臣と親交があった。
また、オランダで工科学校を卒業した経歴から、工学関係にも詳しく本木昌造の活字印刷術にも貢献している。来日時、長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。上野彦馬が撮影したフルベッキの写真が長崎歴史文化博物館に残されている。
[フルベッキ写真]
現代において、フルベッキの名を日本に知らしめているのは、所謂「フルベッキ写真」によるものだろう。
「フルベッキ写真」とは、1865年にフルベッキとその息子を囲んで、明治天皇・桂小五郎・西郷隆盛・高杉晋作・勝海舟・坂本龍馬・大隈重信ら幕末明治を代表する維新志士が、一枚の写真に収まり長崎で撮影されたとされる写真である。対立していた尊皇・幕府双方の要人が一堂に会していることから、大きな歴史の謎と一部では言われている。しかし、実際は明治維新後に致遠館の塾生とともに撮影されたもので、岩倉具定・具経兄弟(岩倉具視の次男・三男)など一部の人物以外は実際には映っておらず、顔の輪郭が似ているだけの者へ、維新の関係者の名前を強引に当てはめただけとされているのが一般的である。
この写真が取り上げられる場合、純粋に「明治維新の記録」として紹介されるもののほかに、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」という陰謀論、偽史の「証拠」とされる例もある。