●沖大東島(おきだいとうじま)は、那覇市の南東 408 キロメートル、南大東島の南約 150 キロメートルの太平洋上にあるハマグリ状の隆起珊瑚礁の無人島。別名・ラサ島 (ラサとう、Rasa Island)。
●全島が沖縄県島尻郡北大東村に属する。住所は郵便番号 901-3900、沖縄県島尻郡北大東村大字ラサ。
●地理
周囲は珊瑚礁に囲まれている。北大東島や南大東島によく似た地形だが、これらの島に見られる中心部の盆地状の起伏は見られず、沿岸は岩礁で囲まれている。
島のほとんどが鳥の糞と珊瑚の石灰質とが化学変化してできた糞化石質燐鉱石(グアノ)からなる。そのため Google Earth などのソフトで衛星写真もしくは航空写真を見ると地表が白く見える。
かつて大日本帝国海軍の気象台があり、昭和20年に空襲で焼失するまで、日本の台風観測上重要な位置を占めていた。
島の右側の海岸線近くに上から " X V X " の形の白黒の人工物が見える。
●歴史
1543年 スペイン人、B・デ・ラ・トーレが大東諸島を発見。
1900年 日本領に編入。
1906年 大東諸島開拓団の玉置半右衛門に15年間の無償開拓が許可された(実際には開拓されず)。
1907年 農学博士で農商務省の官僚だった恒藤規隆によって島内の調査が行われ、肥料の原料となる燐鉱石の採掘開始。
1911年 ラサ島燐礦(りんこう)合資會社を設立、大正2年にはラサ島燐礦株式會社(のちにラサ工業)に改組され、燐鉱石から過リン酸石灰(肥料・火薬の原料)が製造された。
1929年 世界恐慌の煽りを受けて操業中止。
1937年 日本政府よりラサ工業に沖大東島が譲渡され、正式にラサ工業の私有地となる。
1941年頃 太平洋戦争勃発にともなう燐鉱資源逼迫により採掘を再開。
1945年 資源枯渇・米軍攻撃の激化を理由として、従業員・家族ら民間人が引き揚げる。
1956年 沖大東島射爆撃場が設置され、島全域が米海軍の管理下に置かれる。
1958年 米海軍の射爆撃場としての使用開始。
1972年 沖縄の復帰に伴い施設・区域提供される。沖縄県島尻郡北大東村に編入。
1973年 返還に際して国有地と誤認されたが、沖大東島の唯一の地権者であるラサ工業の所有が確認され、企業私有地と認定された。
戦前の 30 年間に移出した燐鉱石は 160万 トンにのぼり、島の表土はほとんどなくなったといわれる。採掘された燐鉱石は、貨物船で岩手県宮古市の工場まで運搬された。
八丈島を中心とする伊豆諸島からの出稼ぎ者と沖縄県からの出稼ぎ者が燐鉱石採掘に従事し、最盛期には人口2000人を超えた。大正時代には、沖縄出身労働者による待遇格差などを理由とした暴動が発生した事もあった。
南北大東島と同様に町村制が布かれず、もっぱら企業による自治が続いていた。ただし、昭和4年までは島に住めるのは成人男性のみであり、南北大東島のそれに比べて極めて簡略化されていた。沖縄県警から請願巡査が派遣されており、時としては労働者の騒乱鎮圧などにもあたった。
昭和16年の操業再開後は家族を連れての出稼ぎが許可されたため、島内に小規模な会社立の青年学校が開校されたりした。この頃には、既に沖縄出身者が多数を占めていた。
生活用水は天水をもっぱら用い、風呂は海水を用いていた。数少ない表土のある長屋には畑が作られ、会社所有のボートでごく小規模な漁も行われていた。
第二次世界大戦中は守備隊も置かれたが、戦争終了にともない無人島化した。
●現況
南大東島や北大東島と異なり、現在でも一貫してラサ工業の私有地である。沖縄返還時には誤って国有地とされてしまったが、翌年にはラサ工業の所有権が確認された。1980年には燐鉱床の探鉱が行われ、燐鉱石が約 300万 トン残存している事が確認された。
一時期、ラサ工業による再開発計画もあり、残存しているとされる燐鉱石を採掘しつつ、島内に石油備蓄基地を設ける計画もあったというが、空対地爆撃射撃場(後述)が返還されないこと、燐鉱埋蔵量が不透明などといった理由から消滅している。なお、ラサ工業は現在は燐酸肥料を含む化学肥料事業から撤退している(詳細は同社の項目参照)。
1956年からは島全域が米海軍による空対地爆撃射撃場(沖大東島射爆撃場)として使用されており、現在でも島の表土はほとんどなく緑が全くない。ラサ工業に対してはその代償として毎年借地料が支払われているが、同社はその額については非公開としている。
上記の理由から一般人が上陸することはできない(私有地ならびに、米軍施設への無許可での立ち入りとみなされる)。遭難者が流れ着いて救助された例があるのみである。
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