こちらは1993年〜2001年までビル=クリントン米国合州国大統領のパートナーとして副大統領を務めた民主党の重鎮であるアル=ゴア氏ことアルバート=アーノルド “アル” ゴア=ジュニア(Albert Arnold “Al” Gore, Jr.)氏に関するコミュニティです2007年にノーベル平和賞を受賞したアル=ゴア前副大統領の活動や言動、地球環境問題、映画「不都合な真実」についてお話し合いできればと思います
【1】アル=ゴア氏と地球環境問題
ゴア氏は地球環境問題のプロフェッショナルとして地球が環境危機を回避するために、世界中を駆け回り、講演を続け、地道な啓発活動を行っています2006年、ゴア氏はデイビス=グッゲンハイム監督の地球温暖化に関するドキュメンタリー映画「不都合な真実」【本題:An Inconvenient Truth】(ローレンス・ベンダー・プロダクション、パーティシパント・プロダクション制作、パラマウント・ピクチャーズ配給)に出演しましたこの映画は2006年5月24日にロサンゼルス、ニューヨーク、バークリー、キャンベル、サンノゼ近郊の限られた映画館で公開された数日後に、全国で公開されました映画には、ゴア氏のもっとも最近の講演が含まれている他、ゴア氏の談話と研究が紹介されています同映画は地球温暖化の問題に熱心に取り組んできたゴア氏のスライド講演の様子を、ゴア氏の生い立ちを辿ったフィルムを交えつつ構成したドキュメンタリー映画です過去の豊富な気象データや、温暖化の影響を受けて衝撃的に変化した自然のフィルムを数多く使いながら、この問題を直視しない政府の姿勢を批判し、人々が生活の中で環境を守る努力を続けることの重要さを訴えています
特にアメリカ合衆国内では、ブッシュ政権が「地球温暖化など単なる学問上の仮説で、現実にはそんなことは全く起きていない!」という公式見解を出して温暖化を否定し続け、国内のメディアもほとんどがそれに追従してきたため、日本人には信じられないことですが、この映画を見て初めて地球温暖化問題について知ったアメリカ人は非常に多く、合衆国内に強い影響を与え、米国大統領選挙2008の争点の1つになっています
この映画に対する環境問題の専門家からの評価は概ね高く、すでに米国国内では600以上の映画館で公開され、2006年7月時点で、ドキュメンタリー映画としてはアメリカ合衆国映画史上3番目の興行成績を収めました2007年2月には第79回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞しました日本では2007年1月20日に公開され、昨年半年で日本における興行収入は約4億1000万円、観客動員数は約31万人を超え、ロングヒットしていますこれまでに大都市を中心に111館以上で上映されました総画像数360点以上ですべてオールページフルカラーというゴア氏の著書「不都合な真実」も昨年1月〜6月末で19万5000部を売り上げたベストセラーですゴア氏が30年以上の年月をかけて取り組んできた環境問題に関する研究成果のすべてを収録しています
【2】アル=ゴア氏の略歴
ゴア氏はアルバート=ゴア=シニアとポーリーン=ラフォンさんの息子としてワシントンD.C.で生まれました。父親はテネシーのベテラン民主党上院議員で、ゴア氏はワシントンD.C.とテネシー州カーセッジ(Carthage)で幼少期を過ごしました。学生時代のゴア氏はワシントンのホテルに住み、セント=アルバヌス=スクールに通学しました。夏季休暇中はカーセッジで暮らし、家族の農場で働いています。
1965年にハーバード大学に入学し、政治学を専攻しました。当時の彼のルームメートは後に俳優として知られるトミー=リー=ジョーンズ氏です。彼は1969年の6月にハーバードを文学士として卒業しました。
1970年にメアリー=エリザベス=アチソン (ティッパー=ゴア)と結婚します。彼らは高校時代にテネシーのダンスパーティで出会い、結婚後は4人の子供をもうけました。カレナ (Karenna 1973年8月6日 - , ドルー・シフと結婚)、クリスティン (Kristin 1977年6月5日 - )、サラ (1979年1月7日 - )およびアルバート3世 (Albert III 1982年10月19日 - )。ゴア氏にはさらにワイアットおよびアンナ=シフという2人の孫がいます。
【3】ゴア氏の政界進出
1976年末の下院議員選挙でテネシー州の選挙区からアル=ゴア氏は民主党から出馬して当選、その後も落選することなく1985年1月3日まで下院議員を務めます。1984年末の上院議員選挙にテネシー州から出馬して初当選し見事に鞍替えを果たし、1993年1月2日まで務めます。1992年6月には地球環境の保護を訴える『地球の掟』(Earth in the Balance)を刊行して、国会議員が自著を出す慣行のないアメリカだから、話題を呼び、ベストセラーとなります。
【4】副大統領に就任
刊行の翌月、1992年7月6日に民主党・大統領候補に決まったビル=クリントン氏から副大統領候補に指名されます。クリントン氏が92年11月3日投票の大統領選挙に勝利し、4年後に再選をはたしたため、1993年1月20日〜2001年1月20日までゴア氏は副大統領を務めます。
【5】2000年大統領選挙に出馬表明
そして、1999年6月19日、翌年に行われる大統領選挙に出馬することをゴア氏は公式に表明します。有力な党内の対立候補としてゴア氏より左派で、元バスケットボール選手であるニュージャージ州選出のビル=ブラッドリー上院議員(当時)が1997年に名乗りを上げ、準備してきました。ブラッドリー氏はバスケットボール選手で超人気スーパー=スターのマイケル=ジョーダン氏をはじめ、名のある人々から支持を集めました。しかし、ゴア氏は初戦のアイオワ州の党員大会、続くニューハンプシャー州の党員選挙で圧勝するなど、初めからブラッドリー上院議員を引き離し、連勝し続けたため、ブラッドリー氏は早々と選挙戦から撤退し、早い段階で民主党の大統領候補はゴア氏に決まりました。
【6】敬虔なユダヤ人を副大統領候補に指名
2000年8月14日〜17日にロサンジェルスで行われる民主党大会を目前にして、8月に入ってすぐに副大統領候補として、敬虔なユダヤ人で共和党も顔負けの党内タカ派で知られ、1989年1年3日からコネチカット州選出で上院議員を務めているジョー=リーバーマン氏を指名します。ジョン=ケリー上院議員やジョン=エドワーズ上院議員(当時)が事前には有力視されていたため、これは「サプライズ人事」でした。リーバーマン氏はクリントン氏がモニカ嬢とのスキャンダルを認めた時、信仰心が厚いユダヤ教徒として倫理・道徳面でクリントン氏を厳しく批判しました。現大統領のイメージを極力、払拭したいから、ゴア氏はリーバーマン氏を指名したと巷ではいわれました。
【7】選挙戦と結果
共和党はジョージ“息子”ブッシュ・テキサス州知事が大統領候補に決まり、ブッシュ・パパの信任が厚いディック=チェイニー氏を副大統領候補にします。ゴア氏とブッシュ氏は互角の戦いで、
全米に生中継された両者のテレビ討論ではディベートに長けたゴア氏がブッシュ氏をこてんぱんにやっつけ、論破します。ゴア氏はご満悦でしたが、国民からはゴア氏の態度が不遜に見えて、逆にブッシュ氏は同情を集めます。そのため、テレビ討論は選挙戦を一気に変える起爆剤にはなりませんでした。投票日まで大接戦が続き、誰が勝つのか分からない状態で2000年11月7日の投票日を迎えます。
開票したら両候補とも互角の戦いで、最終的にはフロリダ州で勝った方が大統領になる……という事態になりました。ブッシュ氏はゴア氏に同州でわずか537票リードしているだけでした。伝統的に民主党支持者が優勢な地域であるフロリダ州パームビーチ郡で投票用紙に不備があることが分かり、ゴア陣営は手作業による再集計を求めた。両陣営の訴訟合戦に発展したものの、再集計は認められず、ブッシュ氏がフロリダ州を制したことにより、大統領の座に就いた。
なお、様々な研究グループが後日、パームビーチ郡で調査をしたが、再集計すれば僅差でゴア氏が勝っていたと大半のチームが結論づけた。