天文13年(1544年)?〜慶長5年9月15日(1600年10月21日)
幼名は孫九郎、従五位下、因幡守。
豊臣秀吉の家臣として小牧長久手の合戦、小田原陣、文禄の役などに従軍。
肥前名護屋城留守居では本丸広間番衆に名を連ねる。
秀吉没後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600)、美濃垂井にて12000石の所領を与えられる。
大谷吉隆(吉継)と共に石田三成の挙兵を諫言したが、聞き入れられず、吉隆と共に西軍に与する。
大谷吉隆らと共に北陸へ出兵。
同年9月15日、関ヶ原の合戦で戦死。
辞世の句
"名の為に棄つる命は惜しからじ終にはとまらぬ浮世と思へば"
大谷吉隆(吉継)の返歌
"契りあれば六つの巷にしばし待ておくれ先立つ事はありとも"
余談ですが石田三成家臣、平塚越中守は弟。
※ 管理人、知識不足の為拙いコミュ説明で申し訳ございません。ご教授頂ければ嬉しいです。