阿武山古墳のコミュニティです。阿武山古墳(あぶやまこふん)は、大阪府茨木市と高槻市の境にある阿武山(標高210m)の山頂にある。阿武山は安威川と芥川の間に立つ丘陵で、周囲からも良く見え、なおかつ山頂から大阪平野のほぼ全部を見渡すことのできる場所である。この古墳は「貴人の墓」という別名でも知られ、被葬者は藤原鎌足説があるなど、高貴な人物であったことは間違いない。
[発見]
1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことからこの古墳が偶然に発見された。通常の古墳にあるような盛り土はなく、浅い溝で直径82mの円形の墓域を形成していた。
墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)が日本で初めて発見された。
棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられた。
[騒動]
この発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せた。
当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある。(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた。)
しかし発掘にはトラブルがあった。京都大学理学部・地震観測所が、観測所敷地内の「貴人の墓」発掘の主導権を握っていたが、考古学の知識に乏しく遺跡に対する扱いが手荒とされていた。 これに対し、最初に相談されただけで以後立ち入り調査をさせてもらえない京都大学考古学研究室と、遺跡を管轄する立場であり見物人の増加や遺物の急速な劣化を憂慮する大阪府は、遺跡の発掘の今後の方向に対し地震観測所と対立を深めつつあった。
大阪府庁で文部省や宮内省なども出席して行われた関係者会議で、被葬者がきわめて高位の人物であることは間違いなく、皇室につながる可能性もあるため、これ以上の調査は冒涜であるとの意見が出た。こうしてついに「貴人の墓」は埋め戻されることになった。
その前に地震観測所が遺骨などをX線撮影したが、内務省の派遣した憲兵隊が見物人から被葬者の尊厳を守るため派遣されており、遺跡に対する学術調査にまで圧力をかけたため、府などによる調査は不十分なまま埋め戻された。
[X線写真分析]
1982年、埋め戻す前のX線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物であったことは間違いない。
これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり、それを授けられた人物は、史上では百済王子・余豊璋を除けば大織冠・鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道された。
しかし669年に死んだ鎌足の墓だとすれば、周辺から出土した須恵器が7世紀前半のものであることは矛盾する。ほかにも、被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂をあげる説もあり、阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できない。
[その他]
大織冠神社・将軍塚古墳(鎌足公古廟)・将軍山
追手門学院大学付近に藤原鎌足の古廟と伝えられている大織冠神社・将軍塚古墳があります。
「藤原鎌足公の墓処は、初め摂津の阿威にあったが、後に大和多武峰に改葬された」という説があり、この神社の場所がその「阿威」にあたるのではないかということで、江戸時代になってこの塚をあてるようになりました。
そのために鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎年10月16日には、京都の九条家から反物2千匹を持参し、お祭りをされていました。
考古学上からは、山頂を利用して造った円墳で、南向きの横穴式石室を有しています。石室は、羨道が玄室の片方に寄ったいわゆる片袖式のもので、丸みのある花崗岩を積み上げています。
玄室の長さは、4.5m、幅1.71m、高さ2.4mで5枚の天井石が乗せられています。時代は古墳時代後期(6世紀)のものですが、早くに開口されたため副葬品については何もわかっていないそうです。
江戸時代には、毎年10月16日に京都の九条家から使者が来て、反物2千匹を持参してお参りしていたそうです。
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