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安保清種

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詳細 2023年4月13日 21:20更新

実父は海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐(三男)。佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校18期生。在学中は父が兵学校次長・子が生徒であった。しかし在学中に種鉄次長が病没する。規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。同時に養父から「清」、実父から「種」の字を頂き、林清種に改名。1897年に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。1909年、養父清康中将の死去に伴い、男爵を相続する。

同期生に加藤寛治がいる。日露戦争時、日本海海戦において、連合艦隊の旗艦である戦艦三笠の砲術長を務め、艦隊の射撃指揮に功績を挙げた。その際、ロシアの戦艦の名を覚える必要があったが、水兵達が慣れないロシア語をなかなか覚えられなかった為、似たような日本語を自身で考え、それで憶えさせたというエピソードがある。(戦艦アリョールを「蟻寄る」、アレキサンドル3世を「呆れ三太」オスラービアを「押すとぴしゃ」、ドミトリー・ドンスコイを「ゴミ取り権助」、クニャージ・スワロフを「國親父座ろう」、ボロディノは「襤褸出ろ」、シソイ・ウェリーキーは「薄いブリキ」、イズムルードは、「水漏るぞ」など)

しかし戦後は海上勤務が極端に少なくなる。1911年度の第2艦隊参謀長と1915年度の安芸艦長のみで、以後は軍政・軍令の両方に長けた幹部として大成する。海軍大臣に至るまでに、1923年度に艦政本部長、翌年から財部彪海軍大臣のもとで海軍次官を1年勤めている。一方の軍令部では、1916年から5年にわたって第1班長を勤め、1920年には軍令部次長に昇進、山下源太郎部長を1年半にわたり補佐した。ワシントン軍縮条約発効後の混乱を軍政・軍令両面で収拾した影の功労者である。

海外勤務が極端に多い。日露戦争後の1908-1911年にイギリス駐在。第一次世界大戦直前から序盤の1913年-1915年にイギリス大使館附武官。戦後の1922年から1年間は国際連盟海軍代表。ロンドン軍縮会議中は顧問としてみたび訪英している。

1927年、海軍大将に就任。1930年には浜口内閣で海軍大臣となった。統帥権干犯問題で山梨勝之進海軍次官と末次信正軍令部次長が更迭されただけではなく、財部彪海軍大臣と加藤寛治軍令部長までもが辞職する事態となり、安保は艦隊派・条約派の亀裂を埋める苦労を強いられた。そそこで従来の財部体制を大幅に見直し、海軍省・軍令部の幹部大多数を入れ替えた。海軍省では小林躋造次官・堀悌吉軍務局長・阿武清人事部長・寺島健教育局長・藤田尚徳艦政本部長、軍令部では谷口尚真部長・百武源吾次長・及川古志郎第1班長・吉田善吾第2班長などが安保に招聘された。しかし主要幹部が丸ごと入れ替わった軍令部では混乱が生じ、谷口部長・百武次長の更迭運動が発生した。安保はやむなく谷口の更迭を決意するが、後任を模索している期間中に浜口首相が襲撃されて死亡する。谷口の後任を決められないまま、安保は海軍大臣を辞職せねばならなかった。最大の懸案事項として残った時期軍令部長の件は、後任に指名した大角岑生海軍大臣が伏見宮博恭王を選んで決着したが、これが条約派追放の遠因となる。

1934年に予備役、1935年に後備役に編入され、1940年に退役。1948年、77歳で没。

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