野間口用輔の三男として生まれる。1886年海軍兵学校(13期生)を卒業し、1888年に少尉任官。砲艦「赤城」航海長、砲艦「龍田」回航委員(イギリス出張)、西海艦隊参謀、装甲艦「金剛(初代)」航海長、「富士」回航委員(イギリス出張)、「吉野」航海長を経て、1898年から翌年8月まで海軍大学校(選科学生)で学ぶ。その後、イギリス駐在等を経て、海軍省副官兼海相秘書官として山本権兵衛大臣に仕えた。
その後、巡洋艦「高千穂」艦長、「松島」艦長、「厳島」艦長、軍務局先任局員を経て、1909年海軍少将・第1艦隊参謀長となり、佐世保鎮守府参謀長、海軍砲術学校長、呉鎮守府参謀長、軍務局長、呉工廠長、海軍兵学校長、舞鶴鎮守府長官、第3艦隊長官を歴任し、1920年に海軍大将、さらに教育本部長、軍事参議官を経て、1924年に予備役に編入され、1936年に退役した。