「カラスの前にカラス無し、カラスの後にカラス無し」
すごいですね!マリア・カラスが亡くなってから今年でちょうど30年になります。
すでに過去の人となってから久しい年月が経過し、忘れられてしまっても不思議ではありません。
それなのに、このフィーバーぶりは何としたことでしょうか。
決して私だけが騒いでいるのではありません。
(ちょっと、騒ぎ過ぎというきらいも無きにしも非らず、ですが世界中どこもたいした変わりはありません。どこにでも気違いは、けっこういるものです)
不出生のプリマ・ドンナ、世紀の歌姫「マリア・カラス」のコミュニティーを立ち上げました。
そんなわけで
カラスファンの皆さん!アンチカラスファンの皆さん!
さあこのコミュニティーに集まれ!!
私のカスタ・ディーバ(清らかな女神よ)
私のカスタ・ディーバよ
忘れえぬ思い出であるとともに、これは歴史の証言でもある。
是非とも最後までお付き合い下さい。
忘れもしない、今でもはっきりと私の記憶に焼きついているコンサートがあります。
1973年5月20日、それは今から34年も前のことです。
私は当時25歳、新幹線に乗って大阪に向かいました。
予定していた時刻より少し早めに中ノ島の、大阪国際フェスティバルホールに到着し、会場に入り開演を待つことにいたしました。
この日の演奏会のタイトルは、「第3回マダム・バタフライ世界コンクール受賞記念演奏会」「マリア・カラス、ジョゼッペ・ディ・ステファノ ゼミナールコンサート」 この長い名前の演奏会がその時始まろうとしておりました。
世紀の歌姫、永遠のプリマドンナ「マリア・カラス」がいよいよ初めて日本の聴衆の前にその姿を現わすことになっており、その瞬間が刻一刻と近づいていたのです。
フェスティバルホールを埋め尽くした聴衆は皆、等しく大きな期待と、またその期待と同じくらいに大きな不安を胸に、心地よいざわめきの中その瞬間を、固唾を呑んで待っておりました。
開演5分前、一ベルのチャイムが会場に鳴り響き、ざわついていた会場が水を打ったように静かになり、いよいよと期待を胸一杯に広げて開演のベルを待っていたのです。
ところが、定刻を過ぎても開演のチャイムがなかなか鳴りません。5分、10分、15分、やがて胸一杯の期待は、胸一杯の不安へと変わって行くにしたがい、会場もまたざわめき始めました。
多くの伝説に彩られたカラスのことだから、本当に出てくるのだろうか?
土壇場でキャンセルをしたのではないだろうか?
等々よぎる不安を打ち消そうと、祈るような気持ちでその一瞬一瞬を過ごしていたのは、私一人ではなかったのです。
会場を埋めている聴衆のほとんどが同じように感じていたようです。
約20分後、待ちに待った本ベルが鳴り響き、アナウンスと共に、この日マリア・カラスとジョゼッペ・ディ・ステファノのレッスンを受けることになっている、マダム・バタフライ世界コンクールの第一位、第二位、第三位の入賞者や、役員スタッフ等が拍手の中、次々とステージ下手からその姿を現わしはじめました。
全員がステージ上に整列し終わり、カラスとディ・ステファノの二人を、そのステージに迎える態勢を整えて、二人が姿を現わすのを待つということになりました。
会場の拍手は一段と激しさを増し、その期待と不安の気持ちは、極限にまで達していましたが、二人はなかなか出てきません。
やがて、ディ・ステファノが一人タキシードでステージに姿を現わし、客席に向かってその声援に応えてから、舞台下手の袖に向かって片手を差し伸べ「マダム、マダム!」と声をかけました。
次の瞬間、まさに忘れられぬ歴史的な一瞬を迎えたのです。
カラスは、グリーンの上着にグリーンのロングスカート、グリーンのバッグにグリーンのハイヒールという鮮やかないでたちで、下手の袖から姿をあらわしました。
そしてそのまま真っすぐ上手の方を向いたまま、大またでバッサバッサとステージを横切るように、ステージ中央の少し手前ぐらいのところまで一気に進み、客席のほうに背中を向けるように、右足が前に出た半身の状態でぴたりと止まりました。
次の瞬間、客席の方に、身体はそのまま顔だけで振り返り、にっこりとあの紛れもないカラスの笑顔を聴衆の前に見せたのです。
その瞬間、会場にドドドドーという地震のような振動が起きたのです。
なんとそれは2000人の聴衆がほとんど同時に溜息をついたのです。
あのカラスの笑顔を見たとたん 「あ!本物のカラスだ!」と誰もが心の中で叫び、ついにカラスに会うことができたと思った瞬間、今までの期待と不安と極度の緊張から一瞬のうちに開放され、その会場に居合わせたほとんどの人が安堵の溜息を一斉についたからです。
マリア・カラスは、その一瞬にして、完璧に2000人の聴衆の心を、自らの手のひらのなかに取り込んでしまったのです。
それからの約二時間半、聴衆はカラスの一挙手一投足に完全に支配されることになりました。
これこそが本物の世界のプリマ、世紀の歌姫、と言われた、マリア・カラスの、その類い稀なるカリスマ性と言われるところのものなのでしょう。
幸運にもそれを目の当たりにすることが出来たのです。
三十分ほど遅れてそのゼミナールコンサートは始まりました。
このコンサートは、三浦環顕彰会・マダム・バタフライ世界コンクール実行委員会が主催した、第三回マダム・バタフライ世界コンクールの入賞者、(第一位、第ニ位、第三位までのソプラノ及びテノールが対象)に対して、このコンクールの特別審査員として初めて日本への招聘に成功した、マリア・カラスとディ・ステファノが公開レッスンを行なうと言う企画でした。
ですから、コンサート会場には、全国各地からカラスファンが詰め掛けていたのです。
今回は公開レッスンなので歌は歌わない。と言う条件付きでしたが。
このまたとない機会をとらえ、例え一目でも良いからあの「世紀の歌姫、マリア・カラス」を自分のこの肉眼で見てみたい。
あろうことならあの「世紀の歌姫、マリア・カラス」の生の声を、なんとか聴いてみたいものだ。
ひょっとしたら聴くことが出来るかもしれない、という淡く切なる想いをその胸に駆けつけた、多少の差こそあるかも知れませんが一言で言えば「カラス気違い」で満たされていたようです。
そこには、一種異様な熱気が溢れていたのです。
その熱気のなか、夢のような、煌めく宝石をちりばめたようなひととき、そんなかけがえのない時間が静かに動き始めようとしていたのです。
いきづまるような緊張感のなかでその公開レッスンが始まりました。
第三回マダム・バタフライ世界コンクールでの入賞者、第一位ルーマニアのソプラノ、エウジェ二ア・モルドボニュをはじめ順次それぞれが、カラスが指定した箇所を三浦洋一氏のピアノ伴奏で歌います。
それをカラスが途中で止めて、細かく指導する。その繰り返しでレッスンが進んで行きました。
テノールはディ・ステファノが担当しました。
それぞれ、国際コンクールでの入賞者だけに、声も素晴らしいし、その歌も素晴らしく、申し分のない、さすがにと思わせるものでした。
やがてレッスンにも熱がこもってくると、今度はカラス自身が小さな声で オクターブ下を歌い始めたのです。
あ!カラスが歌っている!!
会場は、息を呑んで神経を集中し、その声を追うことになります。
そして次の瞬間、カラスの歌声が、突然オクターブ上がり、会場にまぎれもないあのカラスの歌声が響きわたったのです。
その瞬間に、今までさすがに素晴らしい、上手いなあーと思って聴いていた入賞者の歌声が、一瞬にして色褪せたものとなってしまうのです。
それは、言ってみればまさに、大学生と幼稚園児の違い以上の格差を感じさせるものでした。
カラスのその陰影に富んだ歌声には、張り詰めた緊張感があり、非常にリアルなまでに声そのものが、そのままドラマを感じさせるものでした。
その生の声を聴いた聴衆は、突然の福音に思わず声を出したり、溜息をついたりと、会場がどよめく状態となってしまいました。
するとカラスが歌うのを止め、客席の方に顔を向けたかと思うと、手のひらを客席の方に向け、伸ばした腕を左から右に水平に移動させながら、ただ一言「今は、レッスン中ですから」と言うと、そのどよめきは、一瞬にして水を打ったように静まり返り、会場全体に再び張り詰めた緊張感と静寂がかえって来るのです。
それは本当に素晴らしい体験をさせていただきました。
こんなことが何回か繰り返される中でレッスンが進んで行ったのです。
世紀の公開レッスンは多くのドラマと貴重な音楽の知的財産を織り込みながら進んで行きました。
もはやレッスンの細かい内容や具体的なアドバイス等は、今となっては、ほとんど忘れてしまいましたが、当時はその一つ一つが珠玉のようなアドバイスであったことは間違いありません。
そんな中で今だに強い印象を受け、わりと鮮明に記憶にのこされているのが、「ベルカント」と言うことについてのアドバイスです。
たしかカラスが言っていたのは、「ベルカント」とは、決して発声のテクニックのことではなく、歌そのものが、声そのものが、その役柄そのままを現わすような発声、歌唱方を「ベルカント」と言い、歌そのものがまさにドラマでなければならない。
と言うようなことを、言っていたと記憶しています。
やがてコンサートは、鳴り止まないアンコールを求める拍手の続くなか、冷め遣らぬ興奮と感動のうちに終わりを告げたのです。
その心地よい余韻を残して!
いずれにしろ、このゼミナールコンサートは、日本の音楽史上にとっても、画期的な出来事であったと言うことは否定出来ない事実なのです。
このゼミナールコンサートは、翌年1974年10月に行なわれた、 カラスの生涯最後のコンサートツアーとなった、ディ・ステファノとの日本特別公演へと繋がって行ったのです。
そのさらに翌年1975年から予定されていた、カラスの世界ツアーのスタートを飾る、「トスカ」の日本公演は、結局中止となり、幻の公演となった為、この日本特別公演ツアーの最後の公演である1974年11月11日の札幌公演が、カラス生涯最後のステージとなった訳です。
幸せなことに、その日本公演も、東京渋谷のNHKホールでの公演と、上野の東京文化会館での公演を聴くことが出来ました。
全盛期の頃とはまったく違い、だいぶ衰えたとはいえ「鯛は鯛」カラスの芸術の一端に触れることが出来たと思っています。
不出生のプリマドンナ、マリア・カラス
その膨大な量の「世紀の歌姫」の記録がCDやDVD等に残されています。
それは何時でも聴いたり見たりすることが出来ます。
しかし、もう生の声を聴くことは出来ません。
たまたま、ほんの少しの間でしたが、生きた時代が重なり、その芸術を直に享受出来たことは、本当に幸せなことだったと今つくづくと思っています。
私のカスタ・ディーバ・清らかな女神!
マリア・カラスよ永遠なれ!!
「オナシスとの成り行き」についてお話しましょう。
アリストテレス・ソクラテス・オナシス、彼はギリシャの船舶王として知られています。
1906年、トルコの貧しい家に生まれ、一家でギリシャに移住しました。
煙草貿易から一代で巨万の富を築き、世界有数の大富豪となりました。
カラスは、1947年のヴェローナ野外音楽祭で、歌劇「ジョコンダ」を歌って、イタリア・デビューを果たしました。
この公演のためにイタリアに到着して間も無い頃に、ヴェローナの煉瓦工場の経営者であり、この土地の名士でもあった、ジョバンニ・バッティスタ・メネギーニと出会い、30歳近い年齢差を超えて熱烈な恋愛の末、結婚することになります。
以後メネギーニは、夫兼マネージャーとしていつもカラスの傍らにいるようになりました。
カラスがオナシスと出会ったのは、1957年9月3日のこと、ヴェネツィアでのパーティーの席上でした。
翌1958年の12月19日、パリのオペラ座でカラスのパリデビュー・コンサートが、フランス大統領をはじめ、世界各国の王侯貴族、著名な文化人、芸能人の列席のもとで行われました。そのコンサート後の大パーティーで、オナシスがカラスに猛烈なアタックを開始したということは有名な話です。
翌年1959年6月17日に、ロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場での歌劇「メディア」の公演終了後に、オナシスは、ドーチェスター・ホテルに5000人の来賓を招待し、カラスを主賓としての大パーティーを開きました。
オナシスはそのとき、その会場を真っ赤なバラの花で埋め尽くしたと言われています。
そのパーティーから一ヶ月後に、オナシスは、カラス・メネギーニ夫妻を、自分が所有する豪華ヨット、クリスティーナ号に強引に招待します。
この招待への受諾が、世紀の歌姫マリア・カラスの運命を決定的に変えることになりました。
カナリアを連れたウィンストン・チャーチル夫妻やグレタ・ガルボ、モナコ大公ご夫妻といった豪華な顔ぶれでの、7月21日から8月16日までの27日間にも及ぶ、この豪華クルージングは、音楽の世界の女神(ディーバ)を一人の女性へと変えてしまったのかも知れません。
カラスは夫メネギーニと別居することとなり、オナシスは妻と離婚することになりました。
夫メネギーニと別居後のカラスは、舞台から遠ざかるようになり、公演回数もめっきり少なくなって行きます。
カラスは舞台出演を極力抑えて、オナシスがカラスのために買ったスコルピオと言う無人島で、過ごすようになりますが、二人の間はついに結婚にまで至ることなく、その幸せもあまり長くは続きませんでした。
1963年頃からはもう既にオナシスの心は別の女性、ジャックリーヌ・ケネディーの方に移ってしまっていたのです。
その後も二人の関係は続きますが、やがて破局が訪れます。
1968年オナシスはジャックリーヌとの結婚を発表し、9年間に亘る二人の関係にピリオドを打ったのです。
オナシスと別れた傷心のカラスは、パリのアパートの一室にこもり、薬づけの日々を送るようになり、そんな中でも再起への道を探っていたようです。
映画「永遠のマリア・カラス」はこのころのカラスのエピソードを映画化したものです。
カラスのエピソードと言えば、ちょっと横道にそれますがこんなおはなしもあります。
カラスは、デビュー当時100kg以上もある、巨漢でした。最高時には108kgもあったと言われています。
当時は、一般的に言っても、大きな声を出すためには、ある程度の身体が必要であると信じられていたのです。
その迷信がいまだに生きているのか、病に侵されていて今にも死にそうなはずなのに、丸々と太った頑丈そうな「ヴィオレッタ」(ヴェルディの歌劇「椿姫」のヒロイン)や、「ミミ」(プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」のヒロイン)のなんと多いことか!!
やはり多少歌が上手でも、ずっと目を瞑って聞いている訳には行きません。
ちょっと興醒めです。
ですから視覚(見た目)がとても大事だと言うことがわかります。
あるとき、カラスは夫メネギーニとともに、当時ヨーロッパの社交界でも最も貴婦人たちに愛されていた、あこがれのデザイナー「ビキ」のアトリエを訪ねました。
アトリエの中を見廻した夫メネギーニから「ここは君のような人の来るところじゃないみたいだよ」と言われたというのです。
そのときカラスは、悔しい思いを胸に「私は、必ずここに戻ってくるわ」と言い残して、そのアトリエを後にしたそうです。
またちょうどその頃、親しい友人の一人、偉大な演出家であり、映画監督でもあったキルノ・ヴィスコンティからも、「やせたら素晴らしい女優歌手になれるよ」というアドバイスを受けていたのです。
カラスは一大決心をしてダイエットに取り組み、60kgまで体重を落とすことに成功し、見違えるような美貌と、素晴らしいスタイルを手に入れ、まさに貴婦人へと大変身を遂げるのです。
1年後、約束通り「ビキ」のアトリエを訪れ、以後最後までその身に着けるものはすべて「ビキ」が担当することになりました。
その人並み以上に優れた容姿を手にしたカラスは、舞台の上でもよりリアルなヒロインを演じることが可能となり、今でも人々の間で語り草となっている、数々の輝かしいステージをその歴史に残すことになります。
ついでに今回のお話しに関連したエピソードをもう一つ。
カラスがオナシスの子供を身ごもったことがあるのでは?という話しがありました。
1981年、イギリスの女性ジャーナリスト、アリアンナ・スタシノプーロスが発表した「Maria Callas:The Woman Behind the Legend」と言う本の中で、「1966年にカラスがオナシスの子供を妊娠し、生むことを望んだが、オナシスが中絶を強要した」と伝えています。
また、カラスの元秘書、ナディア・スタンチョフが発表した「回想のマリア・カラス」(音楽之友社刊)と言う本の中には、1970年にカラス自身が「おまえに子供なんか生んで欲しくない、もうたくさんだ。すでに二人いる」と(オナシスが)言ったのよ。
死の苦しみだったわ。そうでしょうナディア。中絶なんて恐ろしいことを!決心するまでに、四ヶ月かかった。考えてみて、彼に逆らって子供を生んでいたら、私の人生はどんなに充実していたことか。」と語ったと紹介されています。
これに対し、元夫のメネギーニは「マリアは子供を欲しがったが、さまざまな検査の結果、子宮の構造欠陥で子供を生むことはできないと医者に宣告されていた」と反論しています。
双方どちらの言い分も、さもありなんというお話しですが、しかしその真相は、既に遠い過去という闇の中です。
話を本筋にもどしましょう。
少し健康と気力を取り戻したカラスは、1971年の10月から11月にかけてと、1972年の2月から3月にかけての2回にわたって、あのジュリアード音楽院での歴史的な、演劇の舞台のモデルともなった、(日本では黒柳徹子が上演)マスタークラスを行っています。
翌1973年の5月に、マダムバタフライコンクールの特別審査員として初来日を果たし、私が日記に記した、大阪フェスティバルホールでのマスタークラス、またその翌年1974年のカラス・ディスティファノ日本特別公演へと繋がってくる訳です。
その間、オナシスの方はといいますと、ジャックリーヌとの仲もうまくいかずやがて離婚。
家族の不幸が続いたり事業の失敗等が重なり、健康を害するに至り、1975年3月5日、パリの病院の一室でその生涯をさびしく閉じたのです。
オナシスの死から2年、カラスの突然の訃報を伝える電撃的なニュースが世界中を駆け巡りました。
かつての世界のオペラ界に君臨した世紀の歌姫の孤独な死として世界中のマスコミが取り上げ報道したのです。
1977年9月16日13時30分、十六区のジョルジュ・マンデル通り36番地にある自宅アパートメントでその栄光と波乱にとんだ54年の生涯を閉じたのです。
心臓麻痺説、自殺説、他殺説、その真相はいまだに明らかにされていませんが、カラスが亡くなってから今年で既に30年、その真相が明かされる日は近いのかも知れません。
生前カラスは、インタビューに答えて、「私にとって一夜として平和な夜はありませんでした」と答えています。
カラスにとって舞台に立つということは、常に口さがの無い聴衆(もちろん評論家やマスコミも含めて)を前に120%の完璧さを与えなければならなかったというのです。
100%では当たり前、彼らは常に120%を与えなければ満足しませんでした。
またどんな些細なミスでも見逃すまいと耳をそばだてていたのです。
ほんのちょっとでもミスをしようものなら、翌日の世界中の新聞は、「カラスはもうだめだ」「カラスは衰えた」と書き立て、一夜にして過去の人にされてしまうからです。
体調等で自分が120%与えることが無理だと判断ずれば、たとえどこの国の大統領が聞きに来ていようが、天下のスカラ座の舞台であろうが、自分の芸術を守るためには、何のためらいも無く、その場でその公演をキャンセルしてはばかるところが無かったのです。
それが大きくスキャンダラスに報道されたことが、幾多のカラス伝説を彩ってきたのです。
そんなカラスにやっと平和な夜が訪れたのです。
こと音楽に関しては、その世界に君臨し続けた「女神」(ディーバ)であった訳ですが、一人の女性としては、あまりにも世間には疎く、恋愛に対しても純粋すぎて、決して幸せであったとは言えないかもしれません。
カラスが活躍したその時代は意外と短く、1942年7月、アテネ歌劇場においてプッチーニの「トスカ」を歌い、センセーショナルなデビューを果たして以来、1965年7月のコヴェントガーデン王立歌劇場での「トスカ」を歌ったのを最後に、オペラの舞台からは実質上引退しており、その間わずか23年足らずであったということに驚かされます。
カラスは、そのわずかな時間の中でオペラの歴史に大きな変革の足跡を残しています。
なかでも、埋もれていた数々のベルカウント・オペラに新しい息吹を吹き込み、それを現代に見事に蘇らせたその功績は実に大きいといわなければなりません。
「カラスの前にカラス無し、カラスの後にカラス無し」であります。
真紅の大輪のバラの花に「マリア・カラス」という品種があることをご存知だろうか。
その名は、バラの花の名前にまで冠されたのである。
それはまさに、不出生のプリマドンナ!「世紀の歌姫」マリア・カラスにこそ相応しい花なのかも知れません。
「オナシスとの成り行き」を通して、「私のカスタ・ディーバ」のその後をお伝えできたらと書き始めましたが、いろいろな思いが交錯し、なかなかうまくまとまらず、取り留めのないものになってしまいました。
カラス気違いの私は、ことカラスの話となると、(あ!カラスのことだけではありませんでした)もう夢中になってしまい後先も何もなくなってしまうのです。
これは「気違い」という病気のせいですのでお許し下さい!!
このコミュニティーが新しい素敵な出会いの場になったらいいなと思っています。
皆さんおの力で大きく育てていただければ幸いです。
これからもよろしくお願いいたします。
困ったときには