リャードフ
Lyadov(Lyadoff, Liadoff) Anatoly Konstantinovich1855〜1914
Анатолий Константинович Лядов
サンクトペテルブルクにおいて音楽家の一家に生まれる。指揮者の父親から、1860年から1868年まで非公式に音楽教育を受けたあと、1870年からペテルブルク音楽院でピアノとヴァイオリンを学んだ。やがて器楽演奏の学習を断念して、対位法とフーガの研究に集中するが、それでもなおピアノの腕前は達者だった。リャードフの生まれついての楽才は、とりわけムソルグスキーから高い評価を受け、リャードフは「ロシア五人組」として知られる作曲家集団と関係するようになった。リムスキー=コルサコフの作曲科に籍を置いたが、常習的欠席を理由に、1876年に除籍された。1878年には、卒業制作を完成させるべく、このクラスを再履修している。
リャードフは1878年からペテルブルク音楽院で教鞭を執り、門下にプロコフィエフ、ニコライ・ミャスコフスキー、ミハイル・グネーシン、ボリス・アサフィエフを擁する。1905年に院長リムスキー=コルサコフが、学生の革命熱を支持したかどで音楽院から解雇されると、リャードフも恩師が復職できるまでの短期間、抗議の意思表示で辞職した。
1884年にリャードフは結婚し、これによってノヴゴロド地方に別荘を所有するようになった。夏の間はこの地でのんびりと作曲の筆を進め、1914年に死去した際もこの地で過ごしていた。
リャードフは、同時代の音楽家から高い評価を得たほどの技術的な手腕に長じていたが、持ち前の不甲斐なさから、進歩が妨げられた。リャードフは大作を完成させたことがないということが言われているが、しかしながら彼の小品の多くは、レパートリーの中で正当な地位を占めている。セルゲイ・ヂャーギレフがリャードフに、1910年のシーズンに向けてロシア・バレエ団のために新作スコアを作曲するよう要求したところ、リャードフはぐずぐずしがちな気性から、とうとう依頼に応えることができなくなった。その代わり、ヂャーギレフがイーゴリ・ストラヴィンスキーに話を持ちかけ、提出されたのが《火の鳥》だったという話は、あまりにも有名である。